読書|動物化するポストモダンを読んだんだけど「でっていう」

徒然草2.0

最近、Xでいわゆるリベラル界隈、というか町山智浩にいちゃもんをつけられていた東浩紀という人が気になって、代表作とされる『動物化するポストモダン』を読んでみた。けれど途中でやめてしまった。

私は本の中で語られる第3世代であるらしいがそれを上の世代が指し「動物的」と言われればそうなのかもしれない。でも、読み進めながらずっと頭に浮かんでいたのは「だから何?」という感想だった。まさにその感覚そのものが東浩紀でありポストモダンなのだ、と言われればそうなのだろう。けれど、ポストモダンの議論をオタク文化に接続してみせた、という以上のインパクトが自分には感じられなかった。というかそれはもともとニューアカブームの時に日本の思想家が率先してきたことなので何も新しくない。

YouTubeで見る東浩紀は、頭の回転が速く、声も通り、話もうまい。聞きやすいし、人を引きつける才能もあると思う。ただ、それ以上でもそれ以下でもない、という印象も同時にある。どこか「得をしている人」という感じがする。

宇野常寛が『動物化するポストモダン』を批判した本を読んで⋯なんというタイトルか忘れたが、それはわりと面白かった気もする。ただ、肝心の批判対象をきちんと読んでいないので何とも言えない。とはいえ、わざわざ両方を並べて読むほどの情熱もいまはない、というのが正直なところだ。宇野常寛の方が私のイメージする思想家っぽいんですよね。まあたぶんスタンスの違いなんでしょうけど。

ポストモダンには昔からなんとなく興味があって、ボードリャールの「シミュラークル」本も読んでみたが。結局、「レプリカと本物の区別がなくなる」むしろレプリカが本物を越えるというニュアンスさえ掴めれば十分なのでは、という気がしてこれも流し読んで消費した。思想というのは、コンセプトやフレームワークさえ押さえてしまえば、どこからでも読めてしまうし、どこからでも消費できてしまう。

『動物化するポストモダン』も、どこから読んでもそれなりに楽しめる本だと思う。ある意味で、この本自体がデータベース的な存在なのかもしれない。そう思ってしまうと、他の『郵便的?』のような他の著作も、同じような構造なのでは、と感じてしまい、食指が伸びにくい。

思想そのものが、オタク文化と同じように消費される対象になった。東浩紀の仕事は、その状態を薄く、ざっくりと捉えて言葉にしたものなのだろう。

⋯では、ゲンロンという月刊誌はいったい誰が読んでいるのだろう。どんな人たちが、何を求めてそこに集まっているのか。自分より若い思想好き、いわば「思想オタク」の受け皿になっているのかもしれない。自分も興味をもったが、とびこむ気がなくなってしまった。でも、それが一つの集団として成立するほどに厚みを持っているのだろうか、とも思う。

もちろん、コミュニティとして成り立ち、ビジネスとして続いているのだから、外野がどうこう言う話ではない。ただ、個人的にはどこか不思議な感じが残る、というだけの話である。

思想本チックじゃなくてもいいのだが、オタクの文化史をすべて網羅したような本があればいいのだが、これ!って本がない。岡田斗司夫あたりが出せばいいのに。歴代のアニメージュすべてつっこんだようなやつ希望する。そしてそれを古くせず、毎年アップグレードしてデータベースを最新版にして欲しい(他人任せの無茶振り)

私などは率先してポストモダンの犠牲になった(?)ので、それを俯瞰している思想家などに興味がないのはそりゃそうだとしかいいようがないというオチなきオチ。

そういえば、私の文章は最終的に欲望をさらけ出して終わる、オチもなにへったくれもないのだがこれもまさに自分が動物的なのかもしれない。BLのやおいと同じ構造なのだ。知らんけど。

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