主人公の坊さんが金閣を燃やす話、というくらいの知識しかないが、よく耳にする『金閣寺』(三島由紀夫)を読んでいる。
「金閣寺」という字面からは、きらびやかで圧倒的な美を想像してしまうのだが、実際に見てみると、写真で見た通りの印象でしかなかった。
京都に行ったとき、そんなことを教師に言ったら、「それはお前の心の問題だ」みたいなことを言われたような、言われなかったような記憶がある。
世の中では、「美しい」と言われているものを見たら感動してみせなければならず、それがどうにも面倒くさい。だが、小説の主人公である溝口も、結核の父親に連れられて金閣を見せられたとき、同じような印象を抱いたらしい。
やはり美というものは、普遍的にそういうものなのだろうか。実物を見せられるよりも、字面や言葉から想像したもののほうが、かえって美しい。
近所で少し気になっていた、気の強そうな女の子が、脱走した憲兵と以前から恋仲だった。彼女が弁当を差し入れようとしたところ、憲兵隊に捕まってしまう。
大勢の中で野次馬をしていた溝口は、やがて観念して脱走兵の居場所を吐露した彼女を見て、こう思う↓
「裏切ることによって、とうとう彼女は俺をも受け入れたんだ。彼女は今こそ俺のものなんだ」
いやいや、なぜそこで「俺」が出てきて所有してしまうのか。そうなる意味は分かるのだが、そう思えてしまう三島、やはりヤバい。創作にしたって、どこまでわざとか分からない感じがヤバい。
こっち側に俺は確かにいたかもしれないが、「俺のもの」ではないだろう(汗)。世間―他人―自己が反転してしまう、ということなのだろうか。
三島はわざとそう描いているというのは分かっていても、ぎょっとしてしまう。
どうも私は、主人公と同一化しないと小説が読めないタイプらしくて、今回もそうして読んでいるのだが、「そうはならないやろ」という感覚がどうしても顔を出してしまう。毎回つっこみながら読むしかない。
『仮面の告白』や、いわゆる団地妻的な官能小説(たしか官能のよろめきてきなやつ)も、過去に読もうとしたことはあったが、「そうはならないやろ」感が募って、結局うっちゃってしまった。
それでも今回は逃げずに、がんばって読み切ってみようと思うのだった。

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