ペリーが浦賀へ来航し、幕府に対して威嚇的な態度をとった。清朝には脅しが有効であったため、同じ手法を日本にも試した。しかし、下手をすればこのとき開戦の火種が切られていた可能性もあった。ペリー自身にそこまでの意図はなかったにせよ、日本はうまく危機を回避した。
だが、この瞬間から日本の命運は決まっていた。やがて日本は、米国をはじめとする列強諸国に蹂躙されていくことになる。吉田松陰の抱いた危機感は、むしろ至極まっとうだった。
脱藩の罪により、松陰は長州藩の裁量もあって十年の浪人生活を余儀なくされていた。しかし、彼はなおも行動をやめなかった。今後日本が取るべき道を、藩主・毛利敬親(もうりたかちか)へ直訴。浪人風情が幕府へ直訴するなど、下手をすれば大罪に問われかねない。しかし松陰は、そんなことをまったく厭わなかった。その手紙はどうにか毛利のもとに届いたらしいが特に大事に発展しなかった。
その後、ロシアのプチャーチン艦隊が条約締結のため長崎に逗留。松陰はその船に乗り込み、ロシアへ渡航しよう無謀な計画を行動に移す。だが、欧州との戦争が始まりそうな情勢で、松陰が長崎に着く三日前にプチャーチンの艦隊は出立。結果的には“潜入未遂”にもならない極めて薄いエピソードで話は終わるが、もし何らかの形で成功していれば、歴史の転換点になっていたかもしれない。
仮に日本が米国ではなくロシアと手を組んでいたら――日本の近代史は、まったく違う道を辿っていた可能性すらある。
さて、まったく関係のない話を二つ。
一つは、孟子の「千万人と雖も吾往かん(せんまんにんともわれいかん)」という言葉。どれほどの人が立ちはだかろうと、自らの信念を貫く…この意思の強さは実にかっこいい。ふと、これと似た精神を持つ日本の詩人がいたなと思ったら、高村光太郎だった。
もう一つは、小村寿太郎と高村光太郎。どちらも「◯村◯太郎」という名前で、よく混同してしまう。小村寿太郎は日露戦争の講和を全権として締結した外交官だが、どこか高村光太郎と重なる印象があるのは、名前の響きのせいだろうか。
それはさておき、江戸に戻った松陰は、相模湾の沿岸を勝手に視察する計画を立てる。桜田藩邸で実兄に会ったときも、何も企てていないかのように平然としていた。だが、内にはすでに狂気の炎が宿っていた。
再びペリーが浦賀に戻ってきたという報を聞くや、松陰はついに米国渡航計画を実行に移す。もはや「狂っている」と言わざるを得ない。それほどに彼の行動は常軌を逸していた。
だが、その「狂気」は、単なる激情ではない。そこには明確な思想の根があった。
松陰が若い頃から傾倒していたのは、孔孟の学、とりわけ孟子である。孟子は「浩然の気」を説き、「義を見てせざるは勇なきなり」と断言した。すなわち、義を知りながら行動しないのは卑怯であるという信念だ。松陰はこの言葉をそのまま生きた。彼にとって思索は行動であり、行動は思想であった。
孟子の「千万人と雖も吾往かん」という一句が、まさに松陰の精神の核心である。万人が反対しようとも、自ら信じた道をゆく。その孤高の精神は、のちに高村光太郎の詩「道程」に通じるものがある。「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」と詠んだ光太郎と同じく、松陰もまた「道なき道」を歩もうとした。
高村が「己の内部に光源を持て」と言ったように、松陰もまた「天の命」を己の内に見出していた。幕府の権威も、藩の命も、その光を消すことはできなかった。彼の“狂気”は、外から見れば反逆だが、内から見れば「天命への従順」であった。
松陰の思想の根は狂ではなく“志”である。彼の生涯は、「為さざる有るなり、以って為す有るべし」という孟子の実践そのものだ。
コメント