読書。『秒速5センチメートル』を漫画で読んでいる。

徒然草2.0

ネタバレ有り。新海誠『秒速5センチメートル』の漫画を読んだ。アニメ映画と原作は違うとは聞いていたが、まったく違うかな…設定が細かいので漫画版が一番無難に受容しやすいかもしれない。映画版は削ぎ落としすぎていて、思い出を美しく描きすぎているから、視聴者が真剣に考えることがないような気がする。アニメのほうは、足りぬ部分を妄想して補わないといけないが、そこは好きに視聴者が想像していいようにしている。

あくまで私がそのような気がするだけだが、大人になりすれ違うだけの若かりし頃の恋であり、立場が違うそれぞれの人達の恋のアンソロジーである。脳内に山崎まさよしのBGMが流れながら、楽しく読めた。ちなみに漫画と小説はまた少しずつ違うらしい(汗)。でもこれ、別にone more time, one more chance.が、話の過程ではそうかもしれないけど、漫画を貫くテーマじゃないような…。

イケメンでとても優秀だが恋愛に関してはダメな男・遠野貴樹の話として読むのが通例?かもしれないが、個人的にどこを一番の話題として切りとりたいかと言われると、遠野貴樹が明里ともう会えなくなることを悟った岩舟駅で「どこかで偶然に君に会ったとしても、恥ずかしくないような人間になっていたい」だろうか。

恋愛感情が崇高な社会的な理念みたいに捉えられちゃう論理展開というか感覚っていうのは、果たして普遍的な考えなのだろうか?

遠野貴樹は真面目な人だと言えばそうだし、私もすごい分かる気がするのだが、おとなになって普段思い出さないとしても、10代のときに痛烈に想わないといけない気がするこれって一体なんなんだろう?

きっとこの一方的な気持ちは叶えられないけれど、せめて我恥じないように世で身を立てねばならない。という思考って、分かる人と分からない人が世の中にいる気がしている。少なくとも世間一般で広く語られる恋愛論や人生論のいては、内容が真面目なだけにテーマすらなれない話題な気がする。世の中の人性論って恋愛論て別れてしまい同時に語られないところが、執筆界隈の悪しきところだとすら思う。恋愛に関して、欲望とか劣情を綺麗さっぱり捨ててある種の達観をしてしまう瞬間が若い時に万人にあるんじゃないのか?とおもうが、残念ながらたぶんないってことなのだろうか。具体的に語れる人がいないので「ないのだろう」と判断するしかない。

そこらへんは、スピリチュアルな人のほうが、そのことがよくわかっているというか恋愛を重要視していて、若い女性とかにありがちな「恋愛が成就しないと私の人生が終わる=社会的に認められない」的な発想の男版。男性社会の中でどうあるべきか?まで、恋愛の崇高さを止揚してしまうある種の飛躍はどうとらえるべきか。それとも、そもそも文章化できないものだろうか。まあ書いた所で社会の理念と恋愛をごっちゃにした受け入れがたく気持ち悪いモノにしか見えないことは想像に難くない。たぶん、これがそれに近いんじゃないの?と紹介する本はいくらもあるが、それはそう紹介する人が読んでいるだけであって、たぶん私が考えるそれとは違うのだ。だからこそ、いつもそばで一緒にいるのに、あいつは私を見ずにすごい遠くを見ている…という、早苗にとっての遠野くん現象が起きてしまう。話を戻すと、この恋愛の崇高さ=社会性を、言語化した話は他にあるのか?あるなら読んでみたいが、世間の通俗的な小説は恋愛の欲望とか劣情ばかりを扱っている気がして(たぶん、ほかにもテーマはあるんだろうけど、官能めいたシーンだけで嫌な気分になり)読む気になれない。

ただそのへんの嫌な部分を綺麗さっぱり落とすのはいつだれが読んでも良い作品で…そういう意味では秒速5センチメートルは名作だなあ。年を取りマーケットに期待されてしまうと悲劇は絵描きにくいから喜劇に逃げてしまいがちになるだろうけど、新海誠にはもっとこういった悲劇を描いて欲しいと最近の作品を見ていて思う。

徒然草2.0
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