ChatGPT-5は、開発者たちの想像を超えて、はるかに優れたものになっているらしい。
最近、私はふと「もう人類は労働しなくてもいいのではないか?」と考えることがある。怠け者だからこそ出てくる発想かもしれないが、自分を“根っからのDX推進人材”ということにしておけば、そうした意識を育てること自体がビジネスの可能性を広げるようにも思える。そうやって自分の意識をデザインするほうが、結果的に得るものが多い気がするのだ。
そんな前向き(あるいはズルい)気持ちでAI関連のニュースやX(旧Twitter)を眺めていると、AI否定派がそこかしこにいてうんざりする。彼らはなぜ、そこまでして「労働にこそ価値がある」と信じたがるのだろう?
いざコミュニケーションを取ってみても、「労働に価値があると言いたいわけではない」「AIを全否定しているわけではない」などと、議論の焦点をぼかしてしまう。結局、何が言いたいのか分からず話が噛み合わない。そして私は思うのだ――「自分が存在しているだけで価値がある」と信じられる人たちは、ある意味で本当に羨ましい、と。
だが私は、面倒な作業はすべてAIに任せて、人々が毎日8時間の睡眠を確保し、2〜3時間だけ何かしらの仕事をし、残りの時間を趣味や探求に使えるような社会のほうが、ずっと健全なのではないかと感じている。
不思議なのは、私と同じく“クリエイティブ部門”にいると思っていた人々の中に、AIに強く抵抗する人が多いことだ。とくに、絵師界隈のAI拒否感は際立っている。彼らはAIに仕事を奪われることを恐れているのかもしれない。でも私は思う、「代替されてもよくない?」と。
もしかしたら、彼らはペンや筆を握ることで“自分だけの表現力”や“特別な自意識”を手に入れたと信じているのかもしれない。でも、そうした社会的価値に過剰に意味を見出すのは、かえって不健全ではないだろうか。「絵を描くこと自体が楽しいなら、それで良い」と、なぜ素直に納得できないのだろう?
「AIにはない価値が自分にはあるはずだ」と思い込むことで、自分を不幸にしてしまうケースは少なくない。たとえば、完璧なイメージを描こうとする職人的な姿勢や、ランキング経済の中でトップを目指すという価値観。それ自体は否定しないが、AIが最終的にそうした構造を横から崩す存在になる可能性は高い。でも、それは敵対ではなく、むしろ新たな自由をもたらすことではないかと思う。
人間はこれまで「理性のない、自分に似た動物」を“サル”と呼んできた。しかし、感情というバイアスを持たないAIから見れば、理性も不完全で感情も不安定な人間は、“サル”と大差ない存在に見えるかもしれない。
もちろん、こうした視点を「AIを作る一部の人間が、それ以外の“サル人間”を支配する構図だ」と否定的に見る人もいる。だが私は、人間が幸せに生きる条件はすでにある程度定義されており、AIはそれを実現するための最適解となり得ると考えている。だから、過度な不安は不要だ。
最終的に重要なのは、「AIに抵抗するか、活用するか」を人間が選べる自由があるということ。たとえば今も、AIのオン・オフを自分で切り替えることができる。その“選べる”という感覚が、まだ人間にとって必要な間は、きっとその自由は保障され続ける。
自動運転に安心感を覚える人、不安を覚える人が共存している今と同じように、AIに対する感じ方も時代とともに変わっていくだろう。私たちは、その移行期にいるにすぎないのだ。
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