ネタバレあり。
週末、土曜日。
映画「鬼滅の刃 -無限城編- 猗窩座再来」を観てきた。
結論から言えば、「払ったお金分のリターンは必ずある」ことが分かっているので、安心して見ていられるアニメ映画だった。
評価をあえてするまでもなく、まるで自然と心に触れる音楽を聴いているかのように、鬼と鬼殺隊の命のやり取りをずっと眺めていられる感覚。
漫画は読んでいたが、内容はほとんど忘れていて「誰が生き残るか」くらいしか覚えていなかった。
それでも鬼滅の刃は何度でも楽しめる。「高評価」とか「面白い」とかとは違うのだが、うまく言語化できないものの「非常に良い体験をした」という感覚が残る。
甘露寺さんと伊黒さんが並んで走っているだけで、もう目頭が熱くなった。
無限城を飛び回るカラスになりたいと思ったほどで、広々として気持ちよさそうだった。
さて。映画の構成は大きく3つの戦いだった。
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胡蝶しのぶ VS 童磨 …一番気になっていた対決。次回へ続く。
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我妻善逸 VS 獪岳(かいがく) …獪岳?あまり記憶にないキャラが登場。
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竈門炭治郎 VS 猗窩座(サポート:富岡義勇)
結末を猗窩座戦で締める構成にどうなのかな?と思っていたが、観終わると納得できるものだった。
漫画を読んだ当時は「悲惨な人」という印象で、正直あまり記憶に残っていなかった猗窩座。
父親や恩師である素道場主、その娘を失った怒りから力を求め、無惨の配下となって残虐非道を重ねてきた。だが、清々しいまでに悪気のない炭治郎を前に、初めて敗北を知る。
炭治郎も炭治郎で、闘気を出さず無言で斬り伏せることができたのに、わざわざ斬りつける寸前で声を発する。その正々堂々さ(バカ正直さとも言える)には感心した。
一方で猗窩座も、本気を出せば炭治郎と富岡を殺せたはずなのに、自ら「勝負に負けた」と悟り、潔かった頃の自分に戻る。
結果として猗窩座は無惨を裏切ることになるが、その葛藤らしきものはあまり描かれない。もともと根っからの善人で、性根が曲がっていなかったのだろう。
卑怯を極めた半天狗が個人的には好きな鬼だが、同じく「社会から見放された人物」でありながら、半天狗と猗窩座を分けたものは一体何だったのだろうか。
猗窩座は「真人間になれる素質」を持っていた。素道を身につけたから真人間になったのではなく、もともと清らかさを持っていたのだと思う。
それは「魔が差した」という軽い話ではなく、ただ純粋に「もっと力があれば守れたのに」という想いがあっただけ。
むしろ多くの人は猗窩座のような清々しい性格にはなれない。
だからこそ、性格が悪いやつは半天狗のように「悪いなり」に生きていくしかないのかもしれない。
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