『考えすぎない練習』⋯みたいな本はこれまでも読んできて、冒頭いきなり「無条件の愛」から妻への惚気話からはいり気が滅入ったが、少し踏み込んで読んでみるとなかなかロジカルで気づきが多く体系立てられており面白かった。
教育を目的化しないこと
教育とは本来、私たちに「気づき」を与えるためのものです。けれども私たちは、いつしか教育そのものを目的にしてしまい、それに取り組むこと自体に意味を見出そうとします。しかし、それは本質から外れています。
何かの方法で自分の能力を高めようとしているとき、その行為は本当に目的に向かっているのでしょうか。つまり、「道」を進んでいるつもりでも、実は「道を進むこと」自体が目的になっていないでしょうか。
道を進むことが目的になると、それは論理や思考の産物にすぎません。そして多くの場合、そのような状態は「歩みを止めること」に繋がります。
目標を達成したことで次へ進むという前向きな理由ではなく、三日坊主や長年続けてきたことを辞めてしまう理由の多くは、「道を進むこと」が目的化してしまった結果なのではないか。
そう感じた時は、一度立ち止まり、目的を手放してみることが大切です。そしてインスピレーションを取り戻し、その気づきに近づくための行為こそが本来の「道」であると、自覚し直すべきではないでしょうか。
人の思考は生存確率を高めるためのネガティブなもの
本来、人間に備わっている「思考する機能」は、ネガティブなシミュレーションを行うことで生存確率を高めるためのものです。しかし、あらゆる脅威に備えようとするあまり、心身に不調をきたすこともあります。本来なら、その機能を一時的にでも停止して手放せばよいのですが、悩める現代人にとって、それは簡単なことではありません。
もし本当に簡単なら、多くの人がすでに救われているはずです。でも実際は、「どうやって手放すか」がわからないことが多いのだと思います。
この機能を正確に理解し、訓練を重ねていけば、誰でも再現性のあるやり方で、よりリラックスした生活を送れるようになるはずです。もちろん口で言うのは簡単で、方法論もさまざまありますが、実はかなりロジカルに取り組むことで効果が出やすいのではないでしょうか。
こうした「苦しみを取り除く方法」を考え出した人物の代表が釈迦です。そこから派生した流派には、瞑想を重視するものもあれば、読経や説法、厳しい修行を重んじるものもあります。どれが最適かは、修行マニアでもなく、悟ってもいない私には見当がつきません。ただ、ロジカルなアプローチの方が、効果が出るのが早いのではと思っています。
たとえば瞑想なら「数息観(呼吸に合わせて数を数える)」などは取り組みやすいです。ただ、言われたことをそのままやるだけでなく、「なぜ人の心は苦しみや不安を感じるのか?」をさまざまな角度から理解しようとすること、また「執着を手放すことで得られるメリット」を知ること、自分の中の疑問──「考えることをやめたら意志もなくなるのか?」など──に対して自分なりの答えを見つけていくことも大切だと思います。
疑念が一つでも残ると、それを避けたり、すべてを放棄したくなる。これは人によって異なりますが、その疑念を普遍的・個別的にごまかさず、丁寧に解消していくことが重要な作業だと思います。
理想的には、人生経験が豊富で、どんなタイプの人に対しても一定の成果を出せるような“トレーナー”や“グル”がいればよいのですが、そういう人物は優秀なので指導料も高くなる傾向があります。
もちろん独学という方法もあります。たとえばスティーブ・ジョブズが愛読していた『あるヨギの自叙伝』を書いたパラマハンサ・ヨガナンダのように、ある種の自己啓発書に情報をまとめたものもあるし、成瀬雅春氏のヨガ・ワークショップなども、比較的手頃に参加できるようです。
中には怪しいものもありますが、金銭的・物質的な超越を目指すにあたっては、そもそも善悪の基準が異なります。高額なものが必ずしも悪いとは言えません。
とはいえ、個人的には「お金をかけずに、いかに自由を手に入れるか」のほうが大切だと感じています。
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