日記|東北旅行へ2025

徒然草2.0

また、夏にも行くかもしれませんがGWは東北の方へ。

かなりアバウトに言えば、雪が残る閑散としたキャンプ場をてくてく歩いたり、とにかく観光地に訪れるのは二の次でゆったりしていました。

ふと家に返ってくると日常がふと戻ってきて、まだ今日も1日家でゆっくりしていると思っても落ち着かないです。

GW後にモームリへ連絡する人の気持ちがよくわかる。

『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(仲正昌樹)を読んでいて、ヘーゲルの言う「歴史の終わり」っていうのは(厳密にはフランシス・フクヤマという人がそうヘーゲルを解釈したのだが)、歴史を個人レベルにして「日常」と言い換えて、終わりを「終わらない」に逆にして、さらに「日常」と「終わらない」と入れ替えたら、宮台真司が言った「終わらない日常」になることに気がついた。

終わる日常って言葉だったら、、、死んだ人の目線だから現在進行系で日常を送っている人にとっては終わらない日常外の何物でもない。結局はヘーゲルの歴史哲学の終末的解釈は外れたわけで、人間の理性が進歩したかどうかとかはさておき、私たちの日常は終わらない。実存在的にはやはり「終わらない日常」なわけで、旅行という非日常体験が更に日常体験に病んでいる自分を発見して、あれなんでこんなドツボにハマっているんだろうなと再認識してしまい、旅行で忘れていた心の中のもやもやが湧いてくる。

ヘーゲル哲学の独自性は、ナポレオンが歴史を終わらした!ってことではなくて、理性は進歩し続けて自分の解釈もまた例外じゃない、みたいなニュアンスで人の精神とイコールの関係にある自由とその背後にある国家とか法律について論じたことらしく、それで意見が割れて今に至っているということらしい。哲学の教科書的な解釈ではドイツ観念論を踏襲させて完成させたって書いてあるけど、それじゃあ何のことか分からない。むかし、というかまだマルクス主義が哲学や経済などを語るうえで必要不可欠な知識だと思われていた時代の名残が自分の中にあって「哲学を志す」という気はないが、ヘーゲルぐらいかじっておかないと恥ずかしいというか、ヘーゲルを乗り越えてこそ趣味で哲学に興味があるとどこか無意識に思い込んでいるところが私にはあって、今はそういう時代じゃなくなってしまってはいるものの、でも調べてみると現在進行系でヘーゲルの書籍は多い。私の現時点の解釈だが自己啓発的だし終末論的の走りでもあり、私がアドルノの否定弁証法が好きな理由でもあるが批判的でもあるので、それはそれだけで面白いから一度ヘーゲルに魅了されるとよくもわるくも手放せなくなり、ヘーゲルをいかに使うかがその人の人生の命題にすらなる。もっと平易に言えば「ヘーゲルが自分の一部になってしまう」ところがあるのだろう。まあ、いいやそんなことは。

しかし、旅行から戻ってきてまた日常に戻ればそれに悪い意味でもいい意味でも染まってしまう。旅行の自分と日常の自分って違うよね。どちらも大事だが、旅行の自分が真になると貧乏人は生活が破綻するよね。かといって日常の自分が真で100%かと言われると息が詰まって気がおかしくなる。

現代口語の方丈記を再読した。災害の描写は割とどうでもいいし、今の家は災害で壊れるほどやわじゃないので、鴨長明が行きた時代と現代は違うが、命の儚さというか無常観などの考え方は相変わらず900年前と変わらず遜色ない。50代で隠遁生活に入り悦に浸るとか超理想形。移動式住居の方丈庵をつくって移動生活できたら楽しそうだ。まあ、あんなスカスカの家に住んでいたら長生きはできなそうだが。山から拾った実を食っていれば生きていけるっていうけど、おそらく乞食で得られる食事が主なカロリー源だと思うので、そこはあまり真に受けないほうが良いのではないか。

徒然草2.0
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