おもしろきこともなき世を面白く、すみなすものは心なりけり」(高杉晋作)が座右の銘、という知人がいた。端から見れば陽キャっぽいが、飲み屋で嘆いていることもある。それも本当の顔だろう。モードが切り替わり、深刻なときもあれば楽天的なときもある。彼女に振られて「死にたい」と言い泣く一方で、新しい彼女ができて嬉しそうに一同を安心させる。そしてしばらくすると、元彼女のほうが良かったと涙を流して愚痴を言う。躁うつの軽い版のようにも見えるが、たぶんそんなに深刻ではない。それも含めて一つのスタイルに見える。失恋に泣いてみたい、みたいな。そんな調子だと、周りは理解してあげても、得より損のほうが大きいのではないか。だから、付き合っていても離れていく人が多いだろう。それで残った人は、もしかしたら彼と本当の友達になれるのかもしれない。しかし、損得で人間関係を二分法で考えてしまう自分も、自然に離れてしまう。まあ、仕方がない。
昭和の時代と比べれば、スマホで映像や情報を何でも手に入れられる“天国”から、減点方式で失っていく感覚の若者がいるそうだ。本当?しかし、それをマクロな視点で語っても仕方がないのではないか。
「自分が嫌い=メタ的に自分を許している」という岡田斗司夫の言葉もある。意味はわかるが、「今の若者は3分の2が死にたいらしい」といった話は、大風呂敷を広げすぎている気がする。「【希タヒ念慮】「一番の原因はポルノだと思います」何故現代社会はこんなにも生きづらくなってしまったのか【岡田斗司夫切り抜き/切り取り/としおを追う/山田玲司/対談】」のような切り取り動画を見ても、世界が暗く感じられるのは、自分の老化だけではなく、世代や地域を越えた問題かもしれない。
自分の場合、発作的に「死にたい」と思うことがある。けれど、「ありそうになる」というだけで、実際にそうひどくなるわけではない。無意識から意識に上がる瞬間に吐き気が込み上げる感じはあるが、呼吸を整えたり、別のことを考えたりして回避できる。地球が滅亡するサイズの隕石もぶつからなければ気にならない、そんな感覚。みんなそうだと思っていたが、たぶん違うらしい。うすらぼんやり死にたいという感覚がある人もいるが、それは世界や世間への嫌気の延長であり、深刻ではないことが多い。「死にたいと思ったことがあるか?」というアンケートがたまにあるが、あれの死にたいレベルって人によって定義が違う。ただ消えたいみたいな意味で使っている人もいる。最近、ショート動画サイトを見てたら「低身長で死ぬ」とか言っている女の子がでてきたが、ちょっとおじさん意味わからないッピ…アマプラでたこぴの原罪でも見て死にたくなるか。
「【不動産終わった】都市部にはもう住めない」不動産についても考える。都市部では狭小住宅でも1億円する。車を持たない自分としては、住居に求めるのは何より立地だが、最近はランクを下げて物件を見るしかない。古民家リノベでコスパ&反農生活という夢は無理としても、郊外の一戸建てを終の棲家とするのが現実的ではないかと思う。YouTubeを見ると、賃貸派も根強い。一方、家族は好立地なマンションを希望するが、人気エリアのマンションは需要が供給を上回り、都内マンションの値段は下がらないだろう。1億円の家を買わないか?というチラシがポストに入ってくるから、その半分ぐらいで買ってもいい気がしてくるが、ふつうのサラリーマンが気軽に買える値段を超えている気がする。マンションは地域というかエリアの差に加えてブランドによって人気の差も大きい。低コスパ生活を望む自分としては、資産性も大事だが、管理費や修繕積立金を含めたトータルコストやリスクを考えると、マンションより一戸建ての方が現実的だと思う。資産性云々って言うけど、東京の外から見れば都内並びに関東近辺に住むことがリスクになるようなことも想定に入れたほうがいいのではないか。戦中は都内近郊より地方の方が食料あった。
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