副島隆彦の『中国はアメリカに戦わずして勝つ』をざっと読んだ。内容を自分なりに言い換えるなら、「アジア人同士で無意味に争うな」というメッセージに近いのかもしれない。誰かの思惑に乗せられていないか、一度立ち止まって疑うべきだという指摘には、素直にうなずける部分がある。
ただし、だからといってリベラルが正しいとも思わないし、逆に何かの思想や対象に殉じる生き方にも距離を感じる。信念のために生きること自体は否定しないが、その背後でそれを利用している誰かの存在を想像すると、急にすべてが空虚に思えてくる。本気で何かを信じ切ること自体が、どこか滑稽にも感じられてしまう。
そもそも「どう生きるべきか」という問いも、冷静に考えれば自分の健康状態や経済的余裕に大きく左右される。余裕があるからこそ理想を語れるのであって、その前提が崩れれば哲学もまた揺らぐ。そう考えると、思索そのものがどこか現実離れした遊びのようにも思えてくる。
最近、「怒りは二次感情である」という話をあらためて耳にした。怒りの背後には恐れや悲しみといった一次感情がある、という考え方だ。もしそうだとすると、自分が政治や社会に対して抱いている怒りも、そのままの形で存在しているわけではなく、何らかの不安や恐怖を解釈した結果に過ぎないのかもしれない。
そう考え始めると、「怒り」という感情そのものの実在性すら怪しくなってくる。怒っている自分は確かに存在する。しかし、その中身を分解していくと、怒りは単独で成立しているわけではなく、複数の感情が絡み合った表層的な反応に過ぎないとも言える。つまり、怒りは“事実”というより、“解釈のかたち”なのではないか、という疑問が生じる。
一方で、国際情勢に目を向けると、たとえば中東情勢の緊張やホルムズ海峡の問題などを通じて、日本の生活基盤がいかに他国に依存しているかが改めて浮き彫りになった。エネルギーや物流の大動脈が外部に握られている以上、完全な自立は構造的に難しい。
では個人として、この依存性を少しでも下げるにはどうすればいいのか。きれいな水源と農地を確保して、ある程度の自給自足を目指すというイメージが浮かぶ。しかしそれは現実にはハードルが高い。都市生活者の空想に近い側面も否めない。
現実的に考えるなら、「完全な自立」を目指すのではなく、「依存の分散」や「小さな備え」を積み重ねることになるのかもしれない。たとえば、食料や水の最低限の備蓄、エネルギー消費の最適化、収入源の多様化、あるいは特定のインフラに依存しない生活設計など、小さな選択の積み重ねによりリスクは下げられるかもしれない。その結果が心の平穏に少しは寄与するのかもしれない。
重要なのは、大きな理想に振り回されることではなく、自分の手の届く範囲で「脆さ」を減らしていくことだ。世界の構造そのものを変えることはできないが、自分の生活の設計はある程度コントロールできる。
半年後にはこの問題意識を忘れているかもしれない。しかし、それがとりあえず自分の身の回りの平和である証である可能性もある。逆に状況が悪化している可能性もある。だからこそ、一時的な不安や怒りに流されるのではなく、それらの背後にある感情を見つめつつ、現実的で持続可能な備えを淡々と積み上げていくしかない。

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