日記|反知性的ユーモアが政治権力を握る日が近い?

徒然草2.0
Silhouette christian hand rising over blurred cross on spiritual light background

民主主義って、知性主義者の最後の拠り所なのかもしれない。(愛国心はならず者の最後の拠り所という、サミュエル・ジョンソンの言葉をすこしひねってみた)

この夏の参院選では、参政党が15〜20議席を取るかもしれないという予測がある。この党は「国民主権」を否定して、「国家主権」というものを前面に出している。つまり、民主主義という制度のもとで、国民自身が民主主義を手放すような選択をしているようにも見える。

⋯なぜこんな主張をするのか?そして国民がみずからが支持するのか。その背景には、先の見えない時代の不安から、強いリーダーや明快な秩序を求める心理があるのだろう。人はときに、自分を縛ってくれる「大きな力」を欲するものだ。でも、民主主義って一度手放すと、そう簡単には取り戻せない。権力って、一度渡したら最後、なかなか戻ってこないものだから。

世界を見渡せば、そもそも民主制の国の方が少数派だったりする。そう考えると、参政党みたいな動きも、むしろ世界的な潮流──たとえば、各国で人気を集めている極右政党──の一部なのかもしれない。

「こんな政党が第一党になったり、憲法改正まで行くとは思えない」なんて楽観してる人もいるかもしれないけど、それはちょっと甘い。ナチスだって、ドイツ国民が選挙で選び、次第に権力を集中させていったことを忘れてはいけない。

正直、私自身も知性主義や学術主義に対して批判的な視点を持っていて、「参政党っぽい感覚」もどこか理解できる。でも、完全に反知性に振り切る気にはなれない。だからこそ、こうした政党が一定の支持を集めて社会的に受け入れられていることに、かなりの驚きがある。これは、社会全体が「知性」と「反知性」のあいだで揺れ動いている証なんじゃないだろうか。もしかしたら、今後は民主主義そのものが相対化され、「絶対的な価値」ではなくなっていくかもしれない。そうなると、民主主義の衰退、そして教育の敗北として記録される未来が来るかもしれない。

ところで話は変わるけど、最近「水と空気と光から軽油を作った」という話を見かけた。
南出賢一・大津市長が「45分で20リットルの軽油ができました」って語っていたらしい。

たしかに、大気中のCO₂からメタノールを合成できるようになれば、エネルギー問題が劇的に解決する「夢の技術」ではある。でも、そんなブレークスルーが本当に起きていたら、もうとっくに世界がひっくり返ってるはずじゃないか(汗)。

「水からガソリンが取り出せる」といった類の怪しい実験話って、陰謀論界隈では昔からよく出てくる。でも、驚くことに、ああいう話を本気で信じている人がけっこういる。

もちろん、理屈の上では「科学的に完全に不可能」とは言い切れない。たとえば、大気中のCO₂から燃料を合成する技術もあるし、研究自体は真面目に進んでいる。でも、そういう研究がもし本当に実用化レベルに達しているなら、それはもはや「石油利権の陰謀で潰せる」ような代物ではない。どれだけ権力があっても、技術的真理は隠しきれない。

でも、なぜかそこが感覚的に通じない人がいる。自分でも「なぜこの感覚のズレをうまく言語化できないんだろう」と思う。理屈では理解できるのに、感性のレベルで拒否感が出るというか──。

たとえば、効率のよいエネルギー合成とか、永久機関みたいなものは、確かに「科学をやる人間の夢」であることは否定しない。でもそれに本気で頭を持っていかれてしまう現象が、なぜこんなにも頻繁に起きるのか不思議でならない。

普通に考えたら、もし本当にそんなブレークスルーがあるなら、ドクター中松あたりがとっくに特許を出していてもおかしくない。

漫画『チ。』に出てきた地動説のように、一度広まった「真理」や「情報」は、たとえどれほど強い権力者がいても回収・抹消することはできない。それは科学に限らず、むしろ人文科学的な真理でもある。つまり、「知」は、一度開示されたらもう止められない──それが現代的な理解のはずだ。

そう考えると、「科学的真理が隠蔽されている」みたいな陰謀論を信じる感覚って、むしろ理系的な視点よりも、文系的な構造理解の欠如によるものじゃないかと思えてくる。なのに、そういう陰謀論を信じてしまう人が「文系」寄りだったりするのもまた、矛盾していて興味深い。

これは「反知性主義」にも通じる話だ。

たとえば「消費減税の財源は国債で賄えばいい」という主張。これも、最近ではよく「反知性」的だと批判されがち。でも、個人的にはそこまで単純に切って捨てられるものでもないと思っている。少なくとも、現代経済学では「まだよく分かっていない」「仮説が並行している」分野だと理解しているし。

つまり、「理論的に正しくても、それが現実でどう作用するかはやってみないとわからない」ことは、経済にも科学にも存在する。そういう意味で、一部の過激な経済政策への拒絶反応が「旧来の知に対する盲信」によるものだとしたら、むしろそちらのほうが反知性的では?という疑問すらある。

たしかに、伝統的な経済学的には「インフレ加速・財政破綻まっしぐら」みたいな拒否反応がある。でも、それって理論であって、やってみないとわからない部分もあるんじゃないかと思う。一部の経済アナリストが支持している金融政策でもある。

もちろん「学術的根拠もなしに適当に言ってるのか?」という批判はあるだろうけど、逆に言えば、今のやり方にこだわっても、変化が起きないのも事実。

フォイエルバッハ「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきた。しかし重要なのは、それを変えることである。」ことが常に是ではないが、、、

金をボトムアップ式に動かすことで、デフレマインドを打破できるかもしれないし、ゼロ金利が続く経済には緊張感が欠けている。そういう意味で、経済政策のあり方として、もっと試行錯誤があってもいいと思っている。

しかし科学も政治とか歴史という科学反応はちょうどいい塩梅にコントロールができず不可逆なものでに間違えれば人が死ぬ⋯それも大量に。現実空間を壊さずに実験を世界の人が協力して行っていく必要があるのではないか?

最後にこの記事で一番いいたかったこと⋯。反知性は知性の裏返しだし知性の裏側に在り続けるものだし、ある種のユーモアも含むので人の心をつかむこともあるし、意外に取り扱いがやっかいな代物なのではないか。

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