・メタ認識は大切だが、「自分が今メタ認識できている」と自覚できているときは、すでに物事をある程度見通せている状態なので、特に問題はない。むしろ注意すべきは、メタ認識ができていない可能性があるときだ。このような場合、どのように対処すればよいのか? そもそも、メタ認識というのは学べるものなのだろうか?結局のところ非認知能力や豊富な経験が必要なのではないか?たとえば、What型やWhy型の思考を学んだとしても、それを実際に使おうとする“動機”がなければ意味がないのではない。
・子どもの頃、「計画なんて立てても無駄だ」と思ったことがある。たいてい、物事は計画通りには進まないからだ。結局は、計画を立てたうえで、「計画がうまくいかなかった場合どう動くか」まで決めておいて、それに沿って行動するしかない。けれど、最初の段階でメタ認識ができていないと、人はよく次のような行動をとってしまうのではないか。たとえば――
・時間制限があるのに、悠長に時間を浪費する。
・考えすぎて逆に思考が浅くなり、思考停止に陥って何もできなくなる(あるいは無気力になる)。
・成果が出ないとわかっていながら、とりあえず与えられた作業だけをこなす。
⋯でも、それでは成果は出ないし、意味もない。だから人を動かすには、説得が必要になる。子どもの場合であれば、大人の心を動かすしかない。それも無理なら、あとは違法、つまり“悪事”を働くという手っ取り早い手段に走ることになる。泥棒だって、見方を変えれば「目的を達成するための合理的な行動」なのかもしれない。だからこそ、社会は罰を設けて、そうした直接的な手段を抑制するわけだ。手段の幅を狭めていく。そう考えると、手っ取り早くモノを手に入れたい人にとっては、今の世の中はなかなか不便な時代だなと思う。
・電車やバスに優先席が設けられたのは、お年寄りや体の不自由な人、妊婦などに席を譲りやすくするためだと思われる。ところが、優先席には健康な若者は座ってはいけないと思い込んでいる人が一定数いる。自分も中学生の頃、優先席に座っていたら教師に怒られたことがある。「若者ならしゃんと立っていろ」という意味だと捉えれば、それはそれで正論なのかもしれない。でも、空いているなら座っても問題ないだろう。むしろ、老人が乗ってきたときにすぐ気づいて席を譲りやすくもなる。それにしても、なぜこうした「若者は座るべきではない」という思考が生まれたのか、いまいちよくわからない。老人優遇というより、ある種の歪んだ認識がどこかで形成されてしまったようにも思える。いずれにしても、まるでホムンクルス(不自然で歪(いびつ)な生命体)のように生まれてしまったこの意識を、社会はどう扱うべきか、ちゃんと考える必要があると思う。
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