『時間と空間、物質を超える生き方』(成瀬雅春)という人の本を読んだ。
この人は空中浮遊ができるらしい。人間が空中に浮いたり、水の上を歩いたり、パンを出してみせたり――そうしたことは実は誰にでも可能で、簡単なことなのだという。地下鉄に毒ガスをまいた振興チベット仏教の教祖も似たようなことをしていたが、成瀬雅春もまた同じような技を実践している。そして、それを目の当たりにした人が「自分にもできるかもしれない」と信じ、努力を重ねることで悟りに近づいていくのなら、結果的にはそれでよいのだろう。
科学的にも、人が壁に飛び込んで通り抜けられる確率は0じゃないらしいし。
『善く死ぬための身体論』(内田樹/成瀬雅春)で、内田樹はこう語っている。成瀬雅春先生が飛んでいると言うのだから、きっと飛んでいるのだろう、…というノリである。人間の潜在的な可能性を信じていなければ、ヨガや武道に向かう気持ちすら生まれないし、その鍛錬の果実を得ることもできないのかもしれない。
「人間の潜在可能性に対するこの楽観性と開放性は、武道家にとって非常に大切な資質だと思う。実際、僕が尊敬する武道家の甲野善紀先生や光岡秀稔先生も、“信じられないような身体能力の持ち主”に関する逸話にはとても詳しい」と。つまり、現代に生きる超人的な人物は、過去の超人の話を疑わずに受け入れることからしか生まれてこないらしい。
もっとも、この辺りの話については、個人的には「信じたい人が信じればいい」という程度のものだと思う。ただ『善く死ぬための身体論』には、もう一つ印象的な指摘があった。それは「善く死ぬためには、心身を鍛えておかなければならない」という考え方だ。私はこれまで、体を鍛えるのは生きるためであり、死に際に体力は不要だと思っていた。だが本書では、死を迎えるためにも健康な身体が不可欠だと説かれていて、なるほどと感じさせられた。
人間という存在は、つくづく面倒で、不自由だと思う。時間や空間、そして物質という制約を超えて生きられたらどれほど楽だろう、と夢想することがある。だが成瀬雅春は「答えは自分の中にしかない」と語っている。この言葉は哲学的に言えば、実存主義や独我論に近い響きを持っている(もう少し適切に表現するなら、実存主義的「人生の意味は外から与えられるものではなく、自分自身で見出すものだ」独我論的「外に真理はなく、すべては自己の内面にしか存在しない」の中間的立場)。
つまり、外の世界に普遍的な真理を探しても見つからず、結局のところ私たちが頼ることができるのは、自分自身の内側にしかないという認識である。人間が本来的に抱える制約への応答でもある。外界の条件を変えることは難しい。しかし、内面の在り方なら自ら選び直すことができる。だからこそ「不自由さを超えたい」という欲望は、外の世界を変えることによってではなく、むしろ自分自身の覚醒や理解によってこそ実現される。
空を自由に飛びたいな!タケコプターならぬ成瀬雅春の道場へGO!ちなみに、私は武道対する信仰がいい意味でも悪い意味でも無くなったっぽい。あと悟りへの道なるものはあると思っているんだけど、その方法というか道は複数あるし生き方はシンプルだと気づいただけ。武道とかなんらかの修行行為は若い頃からやっていたからやればできるんだけど、やってできるとやりたくてやっているってすごい差があるもので区別しないといけないものだと思います。本気でやっている人のところに入っていく勇気は小心者なのでない(ということにしておく)。
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