私達がふだん使いしている分かりやすい言葉を使用するということについて。
一般的な人に伝わる言葉で語らなければならないという制約が課される=聞き手が理解できるように配慮をせよという不自由さを強いる。
そのくせ、反論されない&よく分からなくなってもいいという配慮のもとに、ある種の反論できない自由性を掲げる。
分かりやすい言葉で解説できないのは君自身が分かっていないからだと言うことがある種のはぐらかしであり強制なのだ。
その時点で、自分の言葉なんか出てくるわけがないし、そもそも自分を自分の言葉を使わないで定義できないし、自分を借り物の言葉で定義したら自分ではない。
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