日々、考えること。教わることの落とし穴。

徒然草2.0

曲がりなりにも教育業をしていて思うことというか分からなくなることがある。

教えてあげるということや、教えられるってなんだろう?…ということだ。教育に長く携わってきた人はよく似たようなことを言う人もいる「僕らが生徒に教えてあげるなんてことはできず、せいぜい方向を指し示すことができるだけだ」みたいなことを。今の私はこれを「教師敗北宣言」だと思って抹殺している…学習方法を改善しようという努力が不足する方向で考えることはいけないからだが…しかし、どのような手段をもってしても特定の人の学習力向上が望めない場合や状態というのはありえるわけで、それに講師側が割り切る基準がないといけないのもまた事実。学習には決められた期間中にある一定水準まで達しないといけないし、システマティックに捉えないとやっていられない面はどうしてもある。ましてや、学ぶということは自己学習がどんな分野にしても8割か9割は自分で会得しないといけないと思う。やってみないと始まらないことを、「わかりやすく解説する」なんてことに心血を注ぐことが誤った方向に進むということを私は何度か経験してきた。

さて、甲野善紀のこの動画は核心をついている↓

頭で考えたらダメな知識というものが結構ある…すべての知識を得たわけではないが、知識を得ることの9割は頭で考えるわけではないのかもしれない。

日本語と英語をしゃべることができる人がいて、その人にプログラミングを教えることは簡単だと思ったが、あまりうまくいかなかったことがある。

言語的なセンスが高いとプログラミングもすぐ学べると私ははじめ思ったのだが…その人は英語の体得を体で行っていたようで、理詰めでプログラミングを教えるということはまず不可能だということに気づくのに時間がかかった。英語を英語のままに覚えることができる稀有な人というのがいて、そういう人にはプログラミングも体感してもらうしかなかった…ということに後でお互いが気づいた。。

プログラミングは体験的なものでけして理詰めではない…理の反対は感情でも体験でもなく…また理も私から言わせれば体験的かつ感覚的なものである。理を感覚的に反芻させたのち体得したものが理になる。理は入力装置ではなく自己の出力装置として機能することで初めて役立つ道具になると言えばいいか。よくある言葉で言えば、インプットとかアウトプットというやつ。まあ、これでいいんだけど、本質的なことを言えば理の捉え方を気をつけろ!ということの1つの打開策がIO(インプット1・アウトプット)という手法なのである。誰かに分かるように説明できて理解していることの証明になる…なんてことは、実はどうでもいい。別に証明のために説明しているわけではない。出力に転換する過程で自分にフィードバッグさせる訓練になるというだけの話なんじゃないかな。。

あと、理は道具に過ぎず適切な場面で必要最低限使うものであって、自分で見出していかないと身につかない。例えば、喋り方を理屈で覚えた人はいない。幼い時に「マーマー」から始まって大人言うセリフを真似ていて自然に覚えた。知識はそれを踏まえた上で体得する方向でなければ得られない、ということに振り返って気づかないといけない。

徒然草2.0
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