世の中の問題は、多くの場合、マイノリティが「覇権を取ろう」と欲を出したときに起こるように思います。マイノリティがそのまま静かに存在している限り、マジョリティにとっては特に問題は起こりません。もちろんマジョリティの中にも不満や葛藤はあるものの、社会全体は比較的うまく回っています。
ところが、マイノリティの人数が増えたり、活動が活発化したりすると、マジョリティの間に軋轢が生まれます。やがてマジョリティの中にも賛成派と反対派が生じ、分断が始まります。
こういうことを言うと、「それではマイノリティが抑圧されたままでいいのか」と怒られることもあります。私自身も何らかの意味ではマイノリティだと思っていますが、相手はこちらをマジョリティだとみなしてくる。そうなると、話がややこしくなるのです。
面倒に感じて、マジョリティのふりをしてしまうこともあります。でも本当は、人の個性や属性はもっと重層的で単純ではありません。社会は「多様性が大切」と言いながらも、その重層性に追いついていないのが現状です。
多様性とは「さまざまな価値観を認める態度」のことですが、私はさらに一歩進んで「人の内面や立場の重層性を認めること」こそが大事だと思っています。そこには、これまでの概念や用語では足りず、新しい言葉が必要になってくるのかもしれません。
日本社会は今、正と反の過渡期にあります。どちらにもはっきりと属さない中立の立場ではいられない空気が、強まりつつあるように感じています。それが息苦しさの原因でもあります。SNSを眺めているだけでも、個人的にはしんどくなるのです。
一個人としては「なるようにしかならない」と思っていても、「どちらかに立場を取るべきだ」と考える人からは、事なかれ主義者と見なされ、不満をぶつけられることもあります。やむを得ず、賛成か反対かを選ばされる。その構造自体が、しんどいのです。めんどうなのです。
それを「事なかれ主義だ」と責められるのは、いかがなものでしょうか。やりたい人たちだけで進めてくれればいいのに、と感じることもあります。
もちろん、「正→反→合」という弁証法的な流れを経て、しかるべき結果に至るのが理想です。でも、それには人間の寿命を超えるほどの時間が必要だったり、ふと気づくと自然に混ざっていたりするものです。交わらないものは永遠に交わらない。その小さな作用と反作用の繰り返しは、たぶんずっと続いていくのでしょう。
事なかれ主義の反対は、ビジネス用語でいえば「圧倒的当事者意識」などと言われます。でも、それをそのまま個人の生き方に持ち込めばいいかというと、そう単純でもありません。ビジネスならまだしも、個人のスタンスとしてあらかじめ態度を定めてしまうと、本来やりたかったことから外れて、政治運動のようになってしまい、自分自身を見失ってしまうかもしれません。
だから私は、今この現在にとどまりながら、自分なりに完結する、あるいは数人にお裾分けする程度の小さな改革を積み上げるしかないと思っています。それは、大衆に迎合するものでも、特定の集団の理論を振りかざすものでもありません。
自分だけの「箱庭」を作り、それを他人にそっと分け合うような活動。SNSは本来、そういう目的のものだったはずです。でもいつのまにか、違う道具になってしまいました。その原点を取り戻す運動こそが、今のWebに必要なのではないでしょうか。
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