子どもの頃は、お祭りがけっこう好きだったのに、最近はどうも苦手になった。
なんでだろう?と何度か考えてみて、ようやく理由が分かった気がする。
たぶん、「東京の祭り」が嫌いなんだ。
もちろん、東京中の祭りを見て言っているわけじゃない。
ここで言う「東京の」というのは、あくまで象徴的な意味での“東京”だ。
要はシンプルに言ってしまえば、自分は“外の人”として、東京の祭りを見ているから、嫌いだと感じるのだと思う。“中の人”ではない。そこがいちばん大きい。
この前も、神輿を担いでいるのを見て「うるさいな」と思ってしまった。
担ぎ手のなかには電子タバコを吸いながら歩いている人もいて、正直ちょっと見苦しかった。
出店を見ても「これ裏にどんな人たちがいるんだろう?ヤクザ?」なんて余計なことを考えてしまう。
神社の近くでは、担ぎ手らしき人たちががやがや飲み会をしていて、その声が外に漏れていた。
そういう光景を見ながら、自分は完全に“外側”にいるなと思った。
一体感がないから、楽しくないのは当然だ。
宮台真司の『聖と俗』に、教徒ではお祭りの日は授業が2時間で終わると書いてあった。
特別な非日常として、祭りがあった。だからこそ楽しかったのだと思う。
子どもにとっては、「お祭りがある=夜に街を歩き回っても怒られない日」だった。
子ども会で焼き鳥を焼いたり、スイカを切って町内会にふるまったり、準備や片付けも含めてとにかく楽しかった。
中の人だったから、多少いやなことがあっても目をつむれた。
今の自分は、外の人。特に得られるものもない。
この前、提灯づくりのイベントに参加して少しだけ楽しかったけど、それくらいだ。
たぶん、外の人から内の人になる努力をすればいいのだろう。
内の人が外の人を拒んでいるわけでもない(まあ、そういうことはあるにはあるけども)。
でも、自発的に「中に入る努力」をしないと楽しめない、という構造がなんだかもうそれだけでしんどい。
たとえば、どこかの田舎に移り住み半ば強制的に祭に参加させられたら、最初は嫌だと思いながらも、文句を言いつつなんとなく楽しんでいる自分もいると思う。
だから、「祭が嫌い」というより、“そういう状況に自分を置かないと楽しめない”ことが、しんどいんだろうなと思う。
祭りが楽しくないっていうのは、あるしゅの構造的なものだし、私の個人レベルで言えばただの嫉妬みたいなものなのだろう。
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