養老孟司が解剖学の道に進んだのは、戦時中に価値が簡単に変わってしまうことに驚き、「確実な学問」を求めたからだそうだ。松下幸之助や本田宗一郎が取り組んだエンジニアリングも、同じ発想にあると言っていた。
不確実な現代においても、それはなお通用する考え方のように思う。
かつてインターネットのビジネスは虚業だと言われたことがあるが、その裏で動いているネットワークやソフトウェアは極めて確実なものだ。私自身はアルゴリズムに沿って動くものに安心感を覚えていたのだと思う。コンピュータの処理とその結果(データ)は他人の心のように操作できないものではない。私は自分自身の心すら、驚くほどの速さで悪い方向へ変わっていくことに抵抗したかったのかもしれない。
そうして今も「確実なもの」を追い求めている。
たとえば、宗教(学)。宗教の中身が真か虚かはともかく、昔から人々がそれを信じて行動してきたという歴史そのものは揺るがない事実だ。宗教家にならずとも、「そう信じて考えた人が存在した」ということ自体は確かなことなので、それ自体も面白いしそう信じられた思想や人間を調べているだけで面白い。同様に、解釈は無数にあり得ても、その背後にある事物そのものは変わらない。解釈が更新されていくダイナミズムも面白いが、その芯の部分が変わらないという安心感にふれいたい気持ちがある。数学や国語といった基礎学習にも、同じ種類の安定がある。
物事の原理原則を飽きずに求め続ける自分の性質は、どちらかといえば研究者向きなのだと思う。ただ、自分には学がないので、何の役にも立っていないが。学問未満だという自覚があるので、「宗教」ではなくあえて「宗教(学)」や「歴史(学)」と書いている。宗教と言い切ると、それ自体を信じているように聞こえてしまうが、そうではない。
個人的には、いわば「趣味としての宗教」として、さまざまな宗教をローテーションしてみたい気持ちがある。しかしそれをやると、自分の価値基準が歪んでしまいそうでもある。同じことを焼く闘技でやろうとして、あらゆる格闘技を体験したいという欲求で合気道やったり柔術やったりしたが途中でやめた。それだと何も身につかない⋯それはまあ自己責任としても、「ただ体験したいだけ」という態度は、わりと周囲からの目も厳しい(苦笑)世間って、実際いろいろと難しい。
1つ言い訳しておくと自分は、ただ原理的・プリンシパルなものを求めたいだけなのだ。でも、私は器用貧乏ですらない。(結果的に)ただつまみたいだけ。一つの道を極めたい人とは違い、あれこれつまみながら、その基礎部分だけを自分のペースで拾っては手放す、そんな関わり方をしたいのだが。しかし、世間的には、それは役に立たないどころか迷惑ですらあると見なされがちだ。あらゆる場面でそれが起こって、どうにも世間は窮屈で生きづらい。
もっと図太くなって、周囲の目など気にせず、金という分かりやすい指標に従ってあらゆる経験を積むような生き方に少し憧れるかも。ticktockやインスタなんかは自分にはできない体験をてっとりばやく経験したような気になれるから、よくわからない「やってみた」が新しければそれで流行る(こともある)んだよね。
⋯とはいえ、それを本当にやったとしても、結局は飽きるのは目に見えているのでコスパタイパ悪いのでやらない。見てるだけ。そもそもそういう欲望をあけすけにすること自体にどこか抵抗もある。みっともないと感じている時点で、結局は他人の目に縛られているのだろうけど⋯。
――というわけで、またしても自分ではなく世間のせいにする、他責気味のぼやきエッセイでした。
どうでもいいけど、自分は世間のためにやっているんだ!!って本心で言っちゃうひとがいると「なんて偽善者なんだろう!」って怖くなる。それってマジ?本気と書いてマジなの!?冗談でしょ、冗談と言って!って言っていると、真面目な人が怒りだす⋯真面目だったんだね。人を試すような言い方してごめんなさい。あらゆるちゃかしている人は自分を含めて性格が歪んでいるだけなんだと、最近気づいた。そうはならないために自分の真剣な道みつけようと思うと三島由紀夫になる。生きづらさを覚えて太宰治を読みたくなるが夏目漱石ぐらいにしておく。つても、夏目漱石も『こころ』で先生を殺しているから『人間失格』同様にちゃんと破滅はしていて内と外は違うが本質は違いない気がするけど。


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