戯言|死に目に立ち会いたい気持ちが、よく分からなかった

徒然草2.0

「死に目に立ち会いたい」という感覚が、昔からよく分からなかった。

死に目に立ち会いたいという人はけっこういるらしい。
とくに、親の死に目には立ち会わなければならない、という人がいる。

でも、死に際よりも、生前によく話をしていたほうが有意義なのではないか。
以前から、そんなふうに考えていた。

……たぶん、私の感覚がおかしいのだ。

災害やコロナのときに、看取れず、悔やんでも悔やみきれないという話を聞く。
私はそれを「しょうがないじゃん」くらいに軽く考えていた。
けれど、当事者の心理からすると、そんなに簡単に処理できる話ではないらしい。

最近になって、死に際に立ち会うということに、
たしかに意味があるのかもしれない、と少し分かってきた気がしている。

自分の死が近くなったせいもあるのかもしれない。

当たり前かもしれないが、死に目に立ち会うという行為は、
どちらかというと「生き残る側」に意味がある。

そんなことに、ついこの間まで気づいていなかった。

そして、死ぬ側も、かつては誰かを見送る側だったわけで、
だからこそ「死に際に立ち会ってほしい」という考えに発展するのだろうか。

死ぬ側になったことがないので、何とも言えないが。

個人的には、死ぬときは猫のように、
誰にも見られずに死にたいと思っている。

でも、それだと「何も残らない」のだろうか。

そう考えると、
死に際に立ち会うにせよ、立ち会ってもらうにせよ、
双方に意味があるのかもしれない。


何かの文章、たぶん終活に関するものだったと思うが、
「親の別れを子に見せることが、親の最後の務めだ」
と書いてあった。

それは、何かを託すということなのだろうか。
一方で、残された側は、託されたと感じられるのだろうか。

たしかに、そういう意味では、立ち会ったほうがいいのかもしれない。

誰とはあえて言わないが、
やはり、自分にとって近しい人が亡くなるときは、
そばにいたほうがいいのだろう。

安らぎを与えるとか、そういう話ではない。
以前にも書いたが、「未来を正しく考える」きっかけになるからだ。

たぶん、出産に立ち会うのと同じなのだろう。

その瞬間を共有しておくことで、
たとえば夫が生涯にわたって妻を尊敬できたりする。
ヴィジュアルを記憶に留めることで、未来に作用することがある。

単なるメモリアルではない。


祖父の最期に立ち会ったことがある。

それが最期だとは思っていなかったが、
親は最期だと知っていたし、祖父も知っていたのだろう。

回復の見込みはなく、意識はあったが、全身が管だらけだった。

笑っていたように思う。

そのとき、「ありがとう」と思うべきだったと、今は思う。
だが当時は、「早くよくなってね」と思うようにしていた。

祖母の死には立ち会わなかった。最期は棺桶の中だった。

その前は、かなり老いて弱ってはいたが、立って歩いていた。

そこには時間的な隔たりがあり、死を実感しにくい。

やはり、人は「息を引き取る瞬間」を看取ることに何か意味を見出すらしい。

飼っていた犬や猫の最期も見たが、亡くなる瞬間には、たしかに意味がある。

逆に、死に至るところをスキップすると、記憶に残りにくくなる。

思い出すこともないし、思い出そうとしても思い出せない。

意味が薄れてしまう。

やはり私は、死にゆく姿に立ち会うことに、意味を感じているらしい。


そんなわけで、年を取ると「冠婚葬祭くらいしか楽しみがなくなる」
というのは言い過ぎだが、いろいろ考えなければならないことが増える。

今さらながら、いろいろ考えた。

人生のイベントって、あとは死にゆく人を看取り、
最後は自分が死ぬ側になるだけで、何もないのだな、とも思う。

冠婚葬祭の「冠」と「祭」って何だろう。

結婚式に参加することもあるかもしれないが、もう自分には関係ないと考えると、
楽しみというか、計画しておくべきことが「葬」くらいしか残っていない。

仕方なく、葬について考える。

漫画『こういうのがいい』の葬式バージョンを何パターンも考える。

スマートな葬式がいい。

たぶん女性に多いのだと思うが、「自然葬がいい」というやつ。

でも、よく考えると「どうでもいい(笑)」。

生前にそう言っていたから、残された側はそれに従ってやるのだろうが、内心では
「これでよかったのか?」と一度は頭をよぎるに違いない。

それなら、私の場合は、現代日本にとっていちばんスマートなのは共同供養墓なのだろう。

墓があれば遺族が集まるわけでもないし、集まる理由になるというのも変な話だ。

無縁仏と言うのは、なんだか寂しい。かといって、特定の宗派に属しているわけでもない。

だから、共同供養墓でいいんじゃないかな、と思った。


ただ、なんだか、死ぬにあたって「みんなの中に投げ込まれる」感じがするのは、
生きている人にとっての合理性の話であって、少し引っかかる。

本音を言えば、私の骨はロケットに乗せて太陽にぶつけ、
完全に消失させて、ガイアの一部にしてほしい。

……まあ、どれだけ予算がかかるんだ、という話だが。

これは冗談で、要するに「好きにしてほしい」という意味だ。

適当にしてほしい。

徒然草2.0
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