戯言|揺蕩う風(たゆたうかぜ)のように

徒然草2.0

紅白を見るまで「ちゃんみな」というアーティストの存在を知らなかった。初見で「とてもカッコいい人だな」と思った。表現もわかりやすい。ところがSNSを見ると「悪魔崇拝」だの「不快」だの、ずいぶん雑な言葉が多く嫌われているらしい。なんだか不寛容だな日本人。

そもそも「悪魔」という言葉自体が、スタンダード化されたキリスト教の枠組みから外れた存在を指す概念だ。異端、異質、境界的なものをひとまとめにするためのラベル、と言ってもいい。だとすれば、「悪魔っぽいから嫌い」という評価は、ほとんどトートロジーだから、シンプルにキモいって言えばよかったんじゃないかな、とか思ったり…。

「自分の基準から外れているから不快だ」と言っているだけなのに、わざわざ西洋宗教由来の価値判断を借りてくる。その時点で、思考はかなり省略というか侵略されているのではないか。

もし本音が「気持ちが悪い」なのであれば、そう言えばいい。曖昧ではあるが、そのほうが正しいと思う。「悪魔的だ」と言った瞬間、それは個人的な嫌悪ではなくなってくる。

では、その「基準」となるスタンダードとは何なのか。多くの場合、それは自分で言語化されたものではない。いつのまにか身につけ、疑わず、外れたものに違和感を覚えるだけの、輪郭のぼやけた何かだ。だから説明できないし、説明できないからこそ、ラベルで処理する。

この構図は、家族の中でもよく見かける。独身で実家に帰ると、親から「まだ結婚しないのか」「孫の顔が見たい」と言われるのがプレッシャーだ、という話をSNSでよく見かけた。あれは本当に起きていることなのだろうか、と少し疑問に思う。

もし自分がその立場だったら、かなり強く言い返して釘を指すと思う。「それはあなたの価値観でしょう?」自由恋愛が当たり前になり、選択肢が増えた社会では結婚や家庭が絶対的なゴールであるという前提はすでにかなり薄れている。というか薄くならざるをえない。

子どもが宝で、結婚が無条件に美徳だという価値観は、相当強烈な変革が起きない限り、もはや人類は取り戻せないだろう。天変地異が起きて地球の人口が10分の1になっちゃったとか。別に戻す必要もない気もする。…それにもかかわらず、つがいになりこどもを生むことが「スタンダード」だと思い込んだまま、疑いなく他人に押し付けてくる親世代の感覚が、どうにも理解しがたい。まあ、子どもが年頃になったら結婚して欲しいというのが親心というのも分かるし、自分も少なからずそういいたくなるのかもしれない。もちろん、人の価値観は簡単には変えられない。それは仕方がない。

ただ、毎年のように同じ言葉を投げられて苦しむくらいなら、「それは言わないでほしい」と一度は釘を刺しておくべきではないか、とも思う。たかが言葉だが、されど言葉。言わせ続けることを放置する側にも、ある種の責任はあるような気もする。

自分のことじゃない視点を持ってみたり。なんというか、どんな立場でも、生きているだけで、この世界はしんどいな。ふと、「ここは地獄なのではないか」と思うことがある。でもそれは同時に、「天国」という概念をどこかで想定している、ということでもある。突き詰めれば、これは宗教的な比喩表現だ。

信仰がなくても、私たちは「天国」「地獄」「悪魔」といった言葉を使いながら、自分の感覚や苦しさを整理している。それらは本来、比喩として使われる言葉のはずだが、いつのまにか価値判断の道具として振り回されることも少なくない。

スタンダードとは、おそらく「共有されていると思い込まれている前提」だが、実際には、それは人によって、時代によって、地域によって、驚くほど違う。だからこそ本来は、問い直され、言語化され、更新されるべきものなのに、多くの場合は単なるラベルとして使われている。

「悪魔的だ」「普通じゃない」「結婚すべきだ」それらはすべて、思考が止まった宗教的ラベリングと、何ら変わらないのではないか。

徒然草2.0
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