がんばって積み立てファンドに投資をして、お金を使わず長生きしていけば、普通のサラリーマンでも1億円くらい貯めることは、理屈の上ではそれほど難しくないのだと思う。
自分には、その才能があるのか、それとも呪縛なのかは分からないが、最近はとにかくお金を使うことが苦痛だ。お金を使って好きなものを手に入れたり、サービスを受けたりする喜びよりも、「お金が減る」という感覚のほうが圧倒的に勝ってしまう。
若いころは、どこか頭が抜けていたのか、うまい具合に大金が転がり込まないかな、などと本気で思っていた。だが年を取るにつれて現実が見えてきて、「どかっと儲ける」ような方法に、以前のように夢を馳せることができなくなった。
ありがたいことに収入はある。しかし、限られたお金でやりくりしている縮こまったキャッシュフローの家計を眺めていると、「使わないことでしか増やせない」という感覚が強くなり、気持ちがふさぎ込んでくる。
お金がたまっていくのが嬉しい、という人もいるらしいが、最近はその喜びもほとんどない。少し増えた程度では、増えたこと自体に気づかない。ただし、多くの人がそうだと思うが、減るのはきっとと怖い…自分でもよく分かっていない。正確に言えば自分が使って減るのは怖いが、株価が減って資産が減るのはあまり怖くない。自分の消費で損をしたくない。
生活費や、だれか(というか家族の生活のため)に使うお金については、「仕方がない」というか必要経費だと思うようにしている。だが、自分のために使うとなると、いつも強い躊躇が生じる。
ポイントで貯めたお金でDAISOのお菓子を買ったり、Steamでゲームを買ったりはするが、好きなことに使うのはせいぜいその程度。レンタルサーバ代や最低限のサブスクも、自分にとっては「命の維持」には不要な、自分都合の必要経費であり、そういう意味では最大のコストかもしれない。衣食住については、とにかく最低限でいいと思っている。
いずれにせよ、今の自分にとってお金は「使うためのもの」ではない。証券口座に入れて増やすためのものであって、使う対象ではないのだ。このお金は、手元にあるようで、実はないのかもしれない。自分の所有物ではなく、ネット証券やネット銀行のWebサイトに表示されている、ただの数字にすぎない。
日々労働すれば数字は増え、生活費として振り出せば減っていく。それだけの存在。
例えば宝くじが当たらないと実現しないが、3億円くらい金融資産があれば配当だけで手取り年間1000万はいってくるので仕事をやめてもいいかな、とは思う。だが仮にこのまま順調に増えて1億円になったとしても、配当だけで安定して暮らせるわけではない。結局、仮に3億円あっても何らかの形で働き続けるしかない気がする。
自分はサラリーマン時代もフリーランス時代も、給与が振り込まれたことをあまり気にしたことがない。半年以上、銀行口座の残高を見ないのも普通だった。
サイドFIREという言葉があり、5000万円ほどの資産を持って週3日くらい働く、という生き方もあるらしい。しかし、どうにも潔くない感じがする。多くの場合、週5で働かないと稼げる額は違ってくるし、どうせ稼げるなら週5でも週6でも働いて、がっつり稼いだほうがいい。
…もっとも、そうして増えるのは、やはりネット銀行の口座の数字だけなのだが。
きっと自分は、1億円あって野村総合研究所の定義でいう「富裕層」になったとしても、何も変わらず働いているのだろう。そう考えると、なんだか空しい。1億円があってもなくても、自分は相変わらず働いているのだ。想像するとなんだか絶望だ。ふつうは希望を持つらしいが自分の場合は幸と不幸が逆転している。
だって東京では、1億円あっても大したレベルのマンションは買えません。今の部屋の隅、カーテンで仕切った半畳ほどのスペースでPCを叩いている生活より、多少ましな部屋に住めるかもしれないが、それがちょこっと拡張されるだけ。築40年が新築になるだけ。
苦労してリスクを負って貯めた1億円が、分譲マンションという、コンクリートを固めた四角い箱の集合体に変わってしまうのは、どうにも信じられないというか怖い。なんでそんな物理的な空間のために、朝から晩まで命を削り、頭を使い手を動かしていたのか?もしくは株式や事業でリスクを負ってきたのか?と思うと、途端に虚しさがこみ上げる。
それなら、1万円のテントを買って、誰もいない森の中に張っておけばいいんじゃないか、と本気で思ってしまう。そんな発想が出てくる自分は、馬鹿なのか、ある意味で頭がいいのか、自分でもよく分からない。
おそらく自分は、1億円を貯めたとしても仮に10億円を貯めたとしても、今とほとんど変わらない生活をしている気がする。さすがに10億円あれば、年利3%でも税金を払って年間2000万円くらいは使えるはずだ。
だが、それではお金が増えない。そう考えると、結局また労働しているのではないか、という気がしてくる。10億円あっても、今より少し広い部屋に住む程度で、相変わらず節約し、何らかの労働をしているのではないだろうか。20億あっても、50億あっても、たぶん自分は大して変わらない。
そう考えていくと、自分は「お金持ちなのに、お金に縛られた奴隷」という、新しいタイプの人間なのではないか、という妄想すら浮かんでくる。株で成功した人の中には、ずっと質素な生活を続けながら株をやっている人がいるらしいが、もし成功したとしても、自分はそのタイプに近づくのだろう。
働くのをやめて自由な時間をたくさん作れば、何か別のやりたいことが見つかる、という話も聞く。それを見つければいいのかもしれない。
ただ、今のところ見えているのは、「お金持ちになっても、奴隷的な生き方をしている自分」だけだ。お金の奴隷というのは、お金の有無とは関係がない。
私がお金の話をすると、「いらないならくれ!」と言ってくる人がいる。
やめておいた方がいい。己の身勝手な願望だけで手に入れたお金は、結局あなたを奴隷にするだけだ。私と同じような奴隷を増やしたくないので、そういう申し出はお断りしている。
そういう人に対して、「自分で稼げ」という言葉を言う気にはなれない。あの言葉が、どうにも好きではない。
実のところ、自分は労働と生活を切り離したところで、勝手に増えていく「額面」をお金と呼んでいるだけであって、かなりの部分でお金というものを無視して生きている側面もある。額面をじっと見つめていても、そこに縛られていることを再確認するだけだからだ。
とはいえ、「どうやったらリスクなく増やせるんだろうか」と、卑小なことを考えてしまう瞬間がないわけでもない。そういう自分を見るたびに、「ああ、こういう人間にはならない方がいい」と、誰にともなく勧めたくなる。
──そういう人にならないことを、お勧めする。
P.S.
お金の額面そのものを、マスクしてしまえばいいのだろうか。今いくらあるのか分からない状態で、とりあえず生活の保障だけは確保してもらい、あとは何も考えずに、目の前の仕事をする。
いや、やっていることは今と変わらない。だとすれば、それでも奴隷なのだろうか。そもそも、縛られているという自覚がなければ、人は奴隷ではないのだろうか。
奴隷をやめるには、縛られている対象そのものを透明にしてしまうしかないのではないか。もし、お金が無くなれば奴隷をやめられるのだとしたら──
お金がない状態でも生活できる空間を、最初からつくってしまえばいいのだろうか?
思考実験としては面白い気がする。

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