「大事なことは大事ではない世の中だ」と、ふと思う。
大事MANブラザーズバンドが1991年に流行らせた『大事なこと』という歌で強調されるフレーズ「負けないこと」「投げ出さないこと」「逃げ出さないこと」「信じ抜くこと」。あれらは本当に、そんなに“大事”なのだろうか。変化が激しく、前提がすぐにひっくり返る時代に、それらに固執する意味はあるのだろうか。集中力が切れやすい自分の性格もあって、どうしても引っかかってしまう。
KANの「愛は勝つ」も、正直しんどい。人生は勝ち負けなのだろうか。「どんなに困難でくじけそうでも信じることを決してやめないで」いなければならないのだろうか。何を大事にするかは、本来は聴いている人が決めることだが、そうやって自分で決めたことは他人に強制されていないと言えるのだろうか。確かに「ここを逃すと取り返しがつかない」瞬間が人生にあるのかもしれない。でも、そこまで強調されると逆に息苦しくなることもあるのではないか。それが今の時代の感覚ではないだろうか。
自分の場合、これまで「頑張らねば」と思って生きてきた部分はある。そういうメンタルで生活費を稼いできたのも事実だし「頑張るのが当たり前」という価値観を疑いもしなかった。ただ、それで何か“成った”かと問われると、今は強気では言えない。SNSを眺めていると、「頑張るのがしんどい」と言うこと自体が、もはや当たり前になってきているように見える。平成初期のPOPSの影響を、いまだに自分が引きずっていることに気づいて、ふと立ち止まってしまう。ああ、現代に適合していないな、歌も俺も。
一方で、世の中で成果を出している人ほど、「頑張っている感覚」がないという話もよく聞く。平成世代のトップランナーは特にそうだという。逆に、高市早苗のように「がんばりまーす!」というフレーズが素直に好きで(勝手なきめつけで、そういう事実があるのか知らない)、それでエネルギーを出せる人間もいる。結局、どの価値観が正しいという話ではなく、時代と個人の相性の問題なのだろう。
そんなことを考えていたところに、ベネズエラの大統領マドゥロがアメリカに拘束されたというニュースが流れてきた。
ベネズエラ人の多くが、腐敗政治の元凶が取り除かれたとして喜んでいる一方で、国家の代表が他国によって排除されるという状況には、どうしても違和感を覚える。日本の代表が他国に引きずり降ろされる――日本で言えば、太平洋戦争で敗北した時に近い感覚だろうか。かなりの緊急事態で、本来あってはいけないことだ。日本人だからかもしれないが、個人的にはどこか「恥ずかしいこと」のようにも感じてしまう。
圧政は外からではなく、内から取り除くべきだという理想は、確かにある。ただ、その理想にこだわりすぎてはいけない時代になってしまったのかもしれない。ベネズエラ人自身がSNSで語っているように、国家の圧政は、個人が大事にしていることをいとも簡単に無意味にしてしまう。それがシンプルに排除されれば、お祭り騒ぎ(文字通りの「政(まつりごと)」)になるのも、ある意味では当然だろう。
考えてみれば、自分の「しんどさ」も政治と無縁ではない。SNSはそれを可視化し、時に強要し、時に強要される側にもなる。自分から積極的につながりすぎるのも違う気がするが、逃れられない以上、消極的にでも関わらざるを得ない。そういう時代なのだろう。
そういえば、チームみらいの安野貴博の資産が数億円規模であること、そしてクラウドファンディングで政治資金を集めていたことが批判されていた。株式資産の申告を2桁間違えて資産規模が200億円に見えた話もあったせいで、Xはずいぶん騒がしかった。個人的には、生活に困らない状態の人でなければ、そもそも政治にチャレンジできない(ことはないが、チャレンジする意味もないし余裕も生まれない)のが現実なのだから、資産を多少隠していようが別にいいのでは、と思ってしまう。文句を言う資格があるのは、少なくとも安野貴博を応援して寄付をしたサポーターだけだが、彼らは「応援したい」から支援したわけで、そこまで裏切られた気持ちにはなっていないのではないか。

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