戯言|仏陀とアッサバ(阿湿婆)という師匠について。ー釈迦に仏陀への道を歩ませる原体験を授けた架空の人物ー

徒然草2.0

釈迦は仏教をどう考えたのか?――これは結局のところ、釈迦本人に聞かなければ分からない。

「ある時、城門の外に出て病人や死人に出会い、世界は苦しみに満ちていると気づいた」など、後からさまざまな理由づけがなされている。しかし、後世の人々が腑に落ちる“究極的な理由”を考えるとき、実は「どんな師について学んだのか」が重要になるのではないだろうか。

私はもともと「釈迦には特別な師はいなかった」と思っていた…ところが子ども向けの本――小沢章友・藤原カムイの『ブッダ』を読んだとき、そこに師匠らしき人物が登場して「これは誰だ?」と首をかしげてしまった。

結論から言えば、この人物は初期仏典(パーリ仏典)には出てこない。だが、漢訳の仏伝などには登場する「アッサバ(阿湿婆)」という教育係で、ヴェーダのバラモン司祭とされる人物である。ただし歴史的には実在しなかったと考えられている。

そもそも哲学は問題意識なしには生まれない。そしてその問題意識を決定づけるきっかけとなる「師」がいるはずだ――そう考えた人がいたのかもしれない。だからこそ、釈迦の物語に「アッサバ」という人物を置くことで、仏教が生まれる必然のストーリーを作り出したのだろう。言ってみれば、ブッダ伝を鮮やかに描くための“NPC”的存在である。しかし、アッサバがいたからこそ、釈迦がブッダへと至る道筋がより明確になったとも言える。

漢訳の自伝的仏典については今後改めて目を通すとして、まずはアッサバの役割を紹介しておきたい。

――彼は秘教的なウパニシャッド思想の核心、すなわち「アートマンとブラフマンの関係」を説く師として登場する。

シッダールタ「先生、よくわかりません。宇宙の根源であるブラフマンと、わたしのなかに宿っているアートマンが、いったい、どのようにつながっているのですか?」するとアッサバは行った。「王子よ、宇宙の中心であり、根源であるブラフマンと、王子の体に宿るアートマンが、どのようにつながっているのか?それは、わたしにもわかりません。それは、王子自信が考えなくてはならないことです。」

そして、アートマンとブラフマンについてひとしきり語った後にアッサバは言う。

アッサバはゆっくりと首をふって、言った「万物に宿るアートマンと、わたしたちのなかにある魂が、はたして同じものなのか、同じものでないのか?わたしにも、よくわからないのです」「えっ、先生にもわからないのですか?」アッサバはうなづいて、言った。「よいかな、王子、ウパニシャッドが教える、アートマンやブラフマン、そして魂といったものは、目に見えるものではありません。」「それらは、耳に聞こえるものでもなく、手でふれることができるものでもありません。わたしたちの目、耳、鼻、舌、皮膚などの五官では、しっかりと、とらえられないものなのです。ですから、それらがどういうものなのか、ほんとうのところ、まだ、だれにもわかってはいないと、私は考えています。」

その後、アッサバは釈迦のもとに来なくなる。
「危険な思想を植え付ける人物」と見なされ、教育係を解任されてしまったのだという。

アッサバはヴェーダの枠を越えて、むしろ仏教の本質を先取りするような教えを語っていた気もする。しかし、読み手としてはそのおかげでスッと釈迦の生涯が理解できるので、これはこれで悪くないのかもしれない。

なお、釈迦の師といえば、出家後29歳のころに修行を授けたアーラーダ・カラーマが有名だ。ただ、彼は釈迦に根本的な「疑問」を植え付けた師ではない。釈迦はカラーマの教えを実践し、やがてその限界を悟って離れていった。

一方で、カラーマの教えを捨て去るに至る「原体験」を準備し、王族の地位を捨てて修行に向かう動機を芽生えさせた人物。

それこそがアッサバだったのではないか。

徒然草2.0
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