司馬遼太郎の『世に棲む日々』には、主人公・吉田松陰の師であり、松下村塾の創設者でもある玉木文之進の座右の銘といいうか人を表すみたいなトーンで「百術不如一清(ひゃくじゅついっせいにしかず)」という言葉が出てくる。
この出典をWebで調べてみたが、はっきりとした文献は見つからなかった。一般には『朱子語類(しゅしごるい)』や『格言聯璧(かくげんれんぺき)』などの儒教系の書物に「百術不如一誠」という形で見られる表現だ。
では、文之進の「清」はどこから来たのだろう。「誠」の字が「清」になった方がむしろオリジナルなのか。あるいは、音が同じだから、どんな漢字を当ててもよかったのかもしれない。儒教的な「誠」の字を避けて、あえて「清」を選んだ可能性もある。そう考えると、少し面白い。
ちなみに司馬遼太郎は、中国古典からの引用をあまり好まなかったらしい。もっとも、これは「嫌い」という意味ではなく、日本語そのものが“理屈”ではなく“呼吸や情感、間合い”によって意味を伝える言語だから、中国古典の持つ“権威”を借りるような言い回しを避けたのではないか。
たしかに、「誠」という字よりも「清」の方が、理屈っぽさがなく、どこか日本人の感覚にある“清らかな川”のようなイメージを思い起こさせるような気がする。
実を言えば、私はこの「百術は一誠に如かず」という言葉が少し苦手だ。わざとひねくれて「一誠は百術にしかず」と、逆に考えてしまう。
なぜかというと、ある経営者がこれを座右の銘として掲げていたからだ。技術者として、従業員として、会社のやり方に意見すれば、すぐに「誠実さが足りない」と言われてしまうような空気を感じた。
誠の字を背負う新選組は嫌いではない。けれど、百の術のうちひとつの正解を探り出すことこそ、技術者の本懐ではないだろうか。商売にしても、術あってこその誠実であって、
術がなければ、そもそも商いは成り立たないのだ。
もちろん、不誠実であってよいわけではない。誠実さは必要条件だ。だが、「どちらが先か」という話でもないだろう。
むしろ「百術不如一清」なら、もっとすっと、誰の心にも入りやすい気がする。
ちなみに「百術不如一正」とすると、「正」の意味が“正しい”である以上、百の術のなかに誤りがあることになってしまい、そもそも“術”と呼べるものではなくなってしまう。
…というわけで、よゐこのみんなは、私のようにけしてひねくれず、「百術不如一誠」の精神を大切にしてください。そのほうが世渡りはうまくいくでしょう。
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