戯言|ニーチェはキリストか仏陀か?「この人を見よ」はイエス=キリストのこと

徒然草2.0

「この人を見よ」はイエス=キリストのこと

結論から先に書きましたが…ニーチェの頭がおかしくなってしまう前年に書いた「この人を見よ」(ECCE HOMO)はイエスの処刑時にピラトという人物が述べた言葉だそうです。つまり、ニーチェはイエス=キリストと自分を重ね合わせたわけですが、どういうわけかこの解説(最近のはわかりませんが)今までの哲学解説本には書かれていない気がします。

解説者が知らないのか、学術的にそうと言い切れないのか、知りません。たまたま西尾幹二が訳した『この人を見よ』が手元にありますが、、、

本書はニーチェ発狂の前年に成った最後の著作である。”この人、とはニーチェ自身を指し、本書では自らの著作と思考の全体について、彼が時代とどう対決し、個々の著作はどう言う動機によって書かれたかが、解明される”

…としか書かれていません。自分で「この人を見よ」って言っている時点でかなり変な人だという印象になってしまいますが、そうではない(汗)

……ニーチェって何が言いたかったのか分かっているとわりと「そうだね」と共感しながら素直に読めるのに、大前提となる枠組みとかが分かっていないと「暗号に見えて」ちんぷんかんぷんになる思想家/思想本であり、読みはじめる人には「それが哲学書だ」と言わんばかりに難解なものとして並べてしまうけどそうじゃないのだろう。。。

ちなみに、

世の中の哲学者や思想家はキリスト教ならびにキリスト教会を批判することはあっても、イエス=キリストに関してはわりと肯定的にとらえていて、それはニーチェも例外ではない。その当時に理解されずともそれらを利用する人がいて捻じ曲げられようとも、ピラトの言葉をオマージュというかそのまま引用したと知っていれば、ただの自意識過剰な変人が筆を走らせたものとはまた違う読み方ができる。たんに表題の背景となる部分の解説不足によって解釈がねじ曲がるのは書物が何回である以前に前提となる知識不足でありただ時間が「もったいない」意外の何ものでもない。

デュオニソス的なニーチェは仏陀なのか?

「悟った人」と聞いてまず思い浮かぶのは仏陀だが、ではニーチェは仏陀なのだろうか。

私はニーチェについてそれほど詳しいわけではないが、漫画『ニーチェ先生』では、一風変わったバイトの新人が「ニーチェ先生=さとり世代の人」として描かれている。つまりそこでは、ニーチェは「悟った人=仏陀的な存在」として扱われているようにも見える。

しかし、それは少し短絡的ではないだろうか。

たしかに、ニーチェのいうデュオニソス的態度は、善悪や既存の価値を突き破るという意味で「超越的」と解釈できなくもない。だが、仏教的な悟りとは、禁欲や快楽といった両極をも超えた先にあるものだとされる。そう考えると、ニーチェの思想をそのまま「悟り」と呼んでしまってよいのか、疑問が残る。

正直に言えば、私には「よくわからない」。それでも世間では、「ニーチェという先人は悟った人である」という理解が、あまり疑問を持たれずに受け入れられているように感じる。そこに私は強い違和感を覚える。

ただ日本人は、破戒僧的な一休宗純のような人物こそが悟った人と解釈される場合がある。イエス・キリストもまたユダヤの戒律を乗り越えた人なわけなので、そこらへんもふまえた解釈をしているのだろうか???

もちろん、「悟った人だと認めること」と「自分が悟ること」は別の話だ。しかし、それにしても、何の引っかかりもなく「ニーチェは悟った人だ」と受け入れてしまう人たちは、一体どうしてそれが可能なのか言語化できるのだろうか。

「お客様は神様です」という言葉に対して、「神は死んだ」とツッコむのが面白い、というレベルの話ではないのでは。少し立ち止まって考えなければならない問題なのではないか。

徒然草2.0
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