戯言|ゴンドラの猫と自由

徒然草2.0

ゴンドラの猫になっていないか?

「ゴンドラの猫」という話がある。

自分で歩く猫と、ゴンドラに乗せられて移動する猫は、同じ景色を見ているようでまったく違う経験をしているという話だ。

ゴンドラに乗せられていた猫は、物体の大きさや距離感を正確に把握できなくなり、結果として障害物にぶつかるようになってしまうという。

AIや便利さに運ばれて生きている自分は、ゴンドラの猫になっていないだろうかと自分や他人に問いかけたくなる。

AIや他人に使われる側ではなく、AIや人間を使う側に回らなければならない。そう言われるが、では具体的に「何をすべきで、何をすべきではないのか」と問われると、途端に難しくならないだろうか。現代人はもちつもたれつなところが誰だって少しは残るから。

ショート動画などから知識を受動的に受け取るだけでなく、それらを自分なりに総合してアウトプットする。たとえば、ショート動画を作る側に回る、文章を書く。アウトプットする側に立つことで、ある程度は回避できる問題なのかもしれないが……それで安直に居直れたら幸せになれるかもしれないが。

便利な世の中になるにつれて、私たちは「リアル」をより便利に、より効率的に改善しようとする。その結果、便利さや楽ちんさに飼いならされると、身体感覚を失っていく。

それと似た問題として、バーチャルとリアルの区別がつかなくなる、という事態も、今後の人類の課題になっていくのではないだろうか。

バーチャル空間では生きられても、リアルな空間では生きられない人が出てくる一方で、バーチャルが主流になれば、バーチャルだけで強い人間が経済的な勝者になる可能性もある。というかそれがもう現実になっている(情報社会の強者がまさにそれだ)

それでも、原始的な生活の中にこそ価値を見出すという価値観は、きっと消えずに残り続ける。たとえ永遠に生きる方法が開発されたとしても、これまでと同じように、自然に生き、自然に死ぬことを選ぶ人は、必ずいるはずではあるが…。

学校に行かず、好きなことだけをやれば才能は開花するのか?

私は学校が嫌いだ。だから、子どもが学校に行かず、好きなことで才能を伸ばすという考え方自体には賛成できる。

しかし、「放任主義で必ず人が育つか?」と問われれば、答えは明らかにNOだと思っている。何のショート動画かは分からないが、親と子どもが出てきて、「学校は才能をつぶす」「レゴや絵の創作をするほうがいい」といった趣旨の歌をうたう動画を見かけた。

たしかに、レゴの創作や自由に筆を走らせることは大事だし楽しい。しかし、それだけで世の中を渡っていける人間になれるかというと、そう単純でもない。だからといって、「だから学校に行くべきだ」という結論に短絡するのも違う。人を教育するというのは、本当に難しい。

ゆたぽん問題を大人が語る違和感

「不登校YouTuber」とでも言えばいいのだろうか。最近Xで、いわゆる「少年革命家」ゆたぽんを見かける。

彼は独立した個人として生きていける資質があるのだから、周囲の大人は放っておけばいいのに、と思っていたが、案の定そういう方向で生きている。

同世代の人が、彼に憧れたり批判したりするのは自然だと思う。だが、大人が本気であれこれ物申すのは、正直よく分からない。

「悪い大人に利用されている!」と言う大人も、それはそれで逆に利用されていないか?と思ってしまう。やはり放っておけばいいのではないか、と感じる。

大多数の大人が本当に問題視すべきなのは、ゆたぽんに憧れて、ゆたぽんになれなかった人たちのほうではないだろうか。

少数の大人と大多数の大人の代理戦争の間に入り、日銭を稼げるゆたぽんは稀有な存在だ。そこにフォーカスし続けても、あまり意味はない気がする。

むしろ気になるのは、例のショート動画に出てきた男の子たちのほうが、将来グレていないか、という点だ。

そういえば、グレタがロンドンで逮捕されたとかいうニュースはほんとどうでもいい。。。

型にハマった自由と、破る自由

一方で、フォートナイトに人生を全振りしてプロゲーマーになり、そこらの大人より成果を出している小学生もいる。毎月数百万円を稼ぐプロYouTuberを、どう扱えばいいのか、正直よく分からない。

VR強者が経済強者になる例を前にすると、口を閉じるしかないのかもしれない。

ただ、これは「自由にやった結果」というより、「型にハマったうえで、自由に努力した結果」だとは言える気がする。

結局のところ、自由にも作法がある、という話なのだろう。

才能があり、それをうまく扱える人は、現実の荒波を越えて市場で評価される。
そうでない人は、飯も食えず、窮屈で苦痛の多い世界を生きることになる。
――などと、勝手に思っている。まあ、社会で評価されていたって、個人の幸せとは関係ないというのは分かってはいるのだが。。

ここでいう「型」とは、生きていける状態を保てるスキル全般を指している。

たとえば、人誑しの型。人に好かれるという能力は、努力というより生まれ持った性質に近いが、それも一つの型だろう。

学校で勉強し、資格を取り、組織なり個人なりで食っていけるスキルを身につけるのも型だ。なんとなく正社員になり、細々と平社員として生きていけるのも、外部条件に支えられているとはいえ、「量産型サラリーマン」として生き延びている型だと捉えてもいい。

ある程度の型を持った大人が、まったく型を持たない子どもに講釈を垂れる。この構図を前にして、「君たちはどう解釈するのか?」を問い続けることが大事なのかもしれない。

守破離って、そんなに簡単じゃない

思想的に言えば、リベラル系の大学教授の皮を被った悪魔みたいな人もいる。話を聞いていると、「これを真に受けたら不幸になるよな」と思うことがある。

例えば、上野千鶴子を信奉していたら、この人は結婚していました、みたいな話もある。まあ、上野千鶴子は「女性をまるごと捨てた人」ではないので、女性をまるごと捨てたい人が彼女を信奉するのは、そもそもズレているのだが。思想とその制度は自分がそれを利用するためにあるというのが正しいと思うならそうするしかない。あなたも悪魔になれる才能があるのかもしれない。

話がそれた…結局、何が言いたいかというと、すべて分かったような顔で「守破離」と言っているのって、ダサくない?という話だ。…まあ、それは私のことなのだが。

色々と教えた後に「守破離っすね!」って言ったやつだいたい分かってない。

ダサいという自覚があるだけ、まだマシかもしれない。本当に守破離ができているなら、何かの第一人者になっていないとおかしい。

本当は、「守」、つまり型にハマることだけをやっていたほうが、まだマシなのだ。
すぐ破って、すぐ離れていくのは、単に私の集中力がないだけ。その場限りの全集中とか、鬼滅ごっこ、もうやめいや。という、ただのぼやきである。

徒然草2.0
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