Fallout4をはじめました。右も左も分からず息子のショーンを探していますが、放射線や異生物に襲われながら荒野に生えている果物を食べてやり過ごしており、このままだと死ぬのは時間の問題ですが、まあなんとかなるのだろうと楽観的だ。
ゲームだし…と思っているから楽観的なのかな、でも、実際にこのポストアポカリプスな世界に降り立っても、戦場に駆り出されても割と冷静な自分がいる気がします。やることやるしかないんだし。あと数日の間に然るべきアクションとらないと死ぬとしても、できることをやるしかない。。
…とりあえず仕事して、キャッシュを得て、それで飯を食い、体に蓄積する放射能がどうにかして、身の周りを整えればなんとか命を延命できる。それが生きることだ。現実世界となんら変わらない。息子のショーン探しより、自分の最低限の生活が成立することが当然ながら先になる。ストーリーよりも自由に過ごしていい、というよりまず自分の生活のことを考えるのが自由ってものなんだなと再自覚した。サブストーリーやるにしてもまず生活だ。ゲームの中でまず生活臭いことを気にしないといけないのが妙にリアルである。
Fallout4の初心者用の動画を見ながら早くもDLCコンテンツが欲しくて指を加えていますが、最低限のセットがあればマイクラも無限に遊べたぶんFalloutもその手のゲームなので買うつもりはない。
ありあわせのものだけでFallout4生活をしますが、とりあえずゴキブリの肉と荒野に生えている実で生き延びる原子生活から、もうすこし文明的な生活がしたい。とりあえずベッドが欲しい。
マイクラの初期状態よりはるかにしんどいスタートだ。よく考えるとマイクラって土壁に自分が入れる2マスのスペースを掘るだけで自分専用の竪穴住居が完成するし、素手で木を切り倒せばたまにりんごが手に入るから生き残るハードルは実はすごい低い。
それに引き換えFallout4は何かリアルに近くてしんどい。
さて現実世界の話に少し戻して、最近の世界情勢とかを見ていると、、グローバリズムの大きな流れは変えられないと子どもの頃から思っていたわけだが、昨今は変化のスピード感がさらに増していて自分が歳をとったせいもあるかもしれないけれど、周りはそんな未来あるか!というノリだったが今ではそういう人たちはきっと変化についていけなくて閉口している。
「むかし、言っていたことと今はどうかわりましたか?」と聞いても「そんなこと言ったっけ?」という状態になるのでは。昔、あなたこんなことを言っていましたよね?などと私自身も考えが変わっているので尋ねたりしないけど。
そのうち自分が変化を感じるスピードよりも早い変化が訪れるようになり、きっと彼らと同様に閉口するより他にないのだろう。自分が口を開けて何かモノを言っても、時間の流れのほうが早いので過去の話になってしまう。
政治の話に戻すと、現在は政治家が国民の気持ちなるものを組まずにどんどんグローバリズムな政策を推し進めるようになっていることに悲観する声をXでよく目にする。保守的という言葉にネガティブなものを見つけがちな私にとっては、割と願ったり適ったりではあったりするとも言えるし、かといって変化は単純にしんどかったりもする。
ひろゆきが「今の政治が悪いのは国民のみなさんのせいでーす」というトーンで言っているのを目にした。選挙制度がうんぬんであれこれいうつもりはないが、政治に不満がある人のイラっとする気持ちはわかるし私もイラっとするけど、保守的であるよりも改革的であるので粗があるのもまた事実であり、粗ばかりではなく非道だったり、とち狂っているとしか思えないことも在るし起こるわけだし、それが色んな意味で弱者に跳ね返ってくるのを見ていると居た堪れない気持ちになるものの、まあでもそれって保守派が望んだ社会でも起きていたことでもあるので結果最悪でも五十歩百歩なので、その通りだな。
政治家は「国民が劣化した!」と思っていそうだが、それは劣化した政治家を選んだのは、国民なんだから言葉がそのまま自分に返ってくる。それを言うなら、劣化していない国民が選んだ政治家は、政治家をしていないはずだ…が正解だ。自分が政治家になった時点でやはり国民の選択は間違っている、と確信をする=それが真っ当だと言ったところで、なんの生産性もないけど。
Fallout4のテーマでもあるけど人は過ちを犯すものである。
人が生き残るにはいろんなものが必要なわけだけど、端的には言えばリソースの問題。お金でも資源でも食料でも水でもいいけど、そういうものの組み合わせだ。それらを総合して拡大解釈すると「経済が大事」とも言えるかもしれないが、経済が大事だと述べてもマクロなものに目が行きがちというか抽象的すぎて経済に日頃から興味がある人にしか響かないし結局はマネーに目が言ってしまい、ミクロな話になりにくい。ミクロというのはミクロな経済とかではなく、単純に自分の身の回りのリソースのことで、もっと具体的に言えば自分のデスク周りが片付いていてペン差しに何本ボールペンがあり今日何食べたとかそういうのに目を向けるのがいいと思う…というかそれが自分の人生なわけで、その延長が世界でしかない。人は”世界”という言葉を、自分の身の回りの現象という意味でも使用するし、地球上の人類が共有する物理的かつ仮想的な出来事にも使用して、誰も何の違和感もなしにふつうに使いこなしている。そのことを踏まえれば別に私は何も突拍子のないことを書いていないことになると自分に言い聞かせ、グローバリズムをポスト・アポカリプス的な世界観と繋げるのはいかがなものかとも思いつつ、システムは波のようなもので行ったり来たりしながらも、人は最終的には終わりにたどり着くとぼやいている。
人は生きている以上、”世界”を広げないといけないと思い込んでいたが、その”世界”ってどっちの世界だっけ?どっちでもいい気がしているし、むしろ手元にある世界のほうが簡単に充実するのだから、デスク周りを片付けたり、ボールペンを買ったり、ノートに何か書いてみたりするほうが、”世界”を広げることになるのでは。ホリエモンが財務省でデモしても意味ないから意味あることしようと言っていたが、意味があると思っている人の行動を変える意味もない。好きにするのが社会活動なのでわざわざなぜ余計なことを言うのかな。ロケット事業のお金をもらっているからと政治家の子飼いだと言われているが、それとはあまり関係なくて本人はマジでそう思っているのだと私は思う。私も意味ないと思うところがあるので財務省の前に行かないし政治運動していない。政治運動する身分じゃないと思っているところがあるかな。他にやることがなくなったらやるかもしれないけど、そう言う気概があるなら個人のリソースを得る方向で活動していると思う。でもそれを他人に押し付けるとつまらなくなるし大きなお世話になる。
文明が終わるのか戦場に駆り出されるのか。
人生は死を意識しながら送るものだが、人類史で言えば終末があるはずで、そうなると終末世界を意識しながら現世を送るのがセオリーというかライフワークになる。
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