「僕はモテない」が世間では「お金があればモテる」になって、「お金を得るために仕事を頑張る」というモチベーションで動ける人がいるらしい。万年やる気がない自分にはうらやましい人種だ。
現代では、多かれ少なかれ男はそういう価値観のどこかを生きている気がする。けれど自分の場合、その感覚がほとんどない。ゼロではないが、強く持っている人と比べると、自分は限りなくゼロに近い気がしてくる。それが少し負い目だ。今になって、それをなんとなく再確認している。
四十を過ぎると、そもそも“お金でモテる”の難易度がぐっと上がると思う。雑誌『LEON』の表紙を飾るようなエグゼクティブ風のイケオジが、キャバクラのような場所でモテているだけで、現実的にはかなりハードルが高い。「お金を稼いでモテたい」という路線でじじいになってから走るのは厳しい。
そもそも僕は、モテるかモテないかという基準であまりものごとを考えてこなかった。
たまに自分より若いおたく系の人に「おたくの僕たちはモテないよね?」みたいに勝手にグループに入れられることがあった。グループにいただけることはありがたく、そのときは「まあ、そうだね」と返しつつも、内心どこか他人事のように思っていた。たしかに、好きな人に声をかけて、女の子と合コンして盛り上がるような“モテ的エネルギー”が自分には不足しているのは否定できない。それ以前に、どちらかといえば一人で本を読んだり、ゲームしていたほうが落ち着く。
「共感できる」とは思いつつも、“非モテ”という価値観をグループで共有したい気持ちは、自分にはあまりない。非モテSNSなんてのが昔少し流行ったけど、ああいうサービスは共感性というかグループ意識がないので絶対に自分だとつくれないな…まあ作る必要もないけど。
自分がモテるかモテないかを、そもそも問題視していない…これは世代の違いなのだろうか。まったくモテないことを問題と思っていない上の世代の人っているよな…。明らかにモテるタイプではないけど、「モテる自分でありたい」という価値観がずっと抜けていない人たち。若い頃に少しモテた記憶をいつまでも引きずっていて、「俺はいける」と思い続けているタイプ。端から見ている分にはどうでもいい人だが…
いわば、“やっちゃえ日産”の精神で走っていたのに、気づけば“やっちゃったね日産”になっているパターン。日産のスポーツカーに乗っている人に多いタイプ(偏見、すみません)そういう価値観のまま大人になった人たちが、今も一定数いる。
でも、どちらかといえば、自分もそのあたりに近いのかもしれない。というより、「モテるかモテないかを気にしていない」より正確に言えば、都合良く場面場面で切り替えていたような。たぶん一番イタいタイプが、自分には一番しっくりくる。モテないのにモテたいという悩みはなくはなかった。
自分で言語化したことはなかったけれど、思い返せば中学や高校のころ、孤独だなんて思ったことはなかった。むしろ“孤高の俺はカッコいい”と思っていたところがあったのではないだろうか。さすがに自分はカッコいいとは思っていなかったきもするが、ああでも、それって幻想だったな。つまり、「モテる・モテない」という枠の外側で生きるライフスタイルあるいはマインドセットの外にいたのだと思う。
でもこれはこれで、モテていない自分に無自覚な分“日産的にこじれている”とも言える。
世の中のモテる/モテない男性は、大きく分けて4パターンあると思う(狭い見解だけど)。
・実際にモテないし、モテない自覚がある人(例:おたくの僕たちはモテない系)
・実際にモテないし、モテる/モテないという意識もない人
・実際にはモテないのに、モテると思い込んでいる人(例:やっちゃった日産系)
・実際にモテていて、モテるという自覚がある人
このほかに、バランス型のファミリータイプとか、特定の層にモテる軽自動車タイプもいるだろう。いわゆるどうしてもモテたいタイプは、特殊タイプを目指すことになるんだと思う。
自分はといえば、荷台もないブレーキも効かない自転車に乗っていた。乗り物は人を表すというけれど、思えばその時点で勝負はついていた。つまり、生きる道が最初から決まっていたということ。ブレーキが効かない自転車は、アクセルとブレーキの区別がつかない車よりも安全な乗り物だ。ちょっと下り坂がやばいけど、自分の足でこぐ自走感がなにより楽しい。
トヨタの無難な車にでも乗っておけばよかったのかもしれないけど、免許はあるけどペーパーだった。まあそれはともかく、目的が同じでも乗り物が違えば行き着く場所はまったく異なる。だから、「僕たちの乗り物と行く場所は違うんだよ」と、“僕たちはモテない”の人たちに言いたくなる。
まあ、結局のところ、好きな乗り物に乗って好きな場所へ行くしかないし、自転車なら自転車の距離で、行けるところまで行くしかないんだろう。

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