戯言|あの時バカだったと思うけど後悔がわからない

徒然草2.0

本の感想とか見ていると「若い時に読みたかった」とか「子どもの頃に読みたかった」とかよく見かける。その理由としては、若い時に読んでいればそこで得た知識を教訓にして、今より良い地位につけたかもしれないとか、子どもの頃に読んだ方が純粋に感動できて、今より楽しめたに違いないとか、そういうことらしいのだが。

言っていることは分かるし、共感できないわけじゃない。でもさ、後悔してもしょうがなくない?
あれって、結局は「感動を伝えるための表現技法」であって、あんまり真に受けるものじゃないのかな、とも思う。

「ああしておけばよかった」って考えることを非生産的だと言いたいわけじゃないけど、なんというか、根本的なところが自分には分からないんだよな。「その発言にどんな意味があって言ってるんですか?」って聞き返したくなる。

若い時に読んだってさ、若い時だから今と同じ経験値で読めるわけないし、教訓にしようがないと思うんだよ。結局、経験がプラスされてる今だからこそ教訓に感じるのであって。「子どもの頃に見ていたらもっと楽しめた」というのも、今の自分の感想でしかない。

もちろん、「もっと人の言うことを聞いて、周りが楽しんでるアニメやドラマを見ておけば、一緒に盛り上がれたのにな」という気持ちは分かる。でも、だから何?という気もするわけで。
結局、“ちょっと楽しい”と感じているのは今であって、当時の感想には絶対なり得ないわけだよ。

そんなわけで、読書に限らず、後悔って行動そのものがよく分からないと常々思う。


「もっと勉強しておけばよかった」も同じで、私はあまり勉強しなかったけど、そんな人間が「もっと勉強しておけば」なんて言っても、当時の自分は多分やらない。行きたい大学に行けたのにって意味で言う人もいると思うが…きょとんとしてしまって「オメーの実力だよ」と心無い言葉を言いたくもなる。そんなに悪気はないけれど、そうして納得しないと気がすまない”自分”がいるのかな。

未来の自分が現れて「勉強しろ」と言っても、「今楽しいし、未来の後悔は未来の自分がやるんでしょ?分かってるけど、なるようにしかならんし」と返すと思う。そして正直、今もそう思っている。

たとえば60歳の自分が今40歳の私のところにやってきて(そういう生命保険のCMがあったような)「もっと家族を大切にしろ」「もっと仕事を真剣にやれ」「健康に気をつけろ。こんな惨めになるぞ」「親孝行してありがとうって伝えておくんだ」と言われたら、まあ少しは気をつけようかなとは思う。でも結局、「やっちゃったものは取り返せないしな」で終わりそうでもある。

もちろん「あの時バカだったなあ」とは思うし、これを後悔と呼ぶのかもしれない。でも、バカに何を伝えてもバカだから聞かないので、身をもって不幸な体験をしないと身につかないというか、やっぱり「言われてもなあ」ってなるよな。

もし未来の貧乏な私が来て「1年以内に世界恐慌で株価が10分の1になるぞ!」って言ってきたら、「ありがとう!空売りして大金持ちになるね!」ってなるわけで、後悔どころか歓喜だし、それはそれでまたややこしい。

そんなわけで、後悔も反省もできない体質なのかもしれない

だから発展がないのかもしれないが、反省してできる努力でどうにかなることはやってきたこともあるし、それはやはり反省と改善であって後悔の類じゃないんだよな。負けだと思わなければ負けじゃないみたいな自己満足に近い自己啓発的なものかな?よくわからない。誰か後悔の仕方を教えてください。

徒然草2.0
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