最近、ショーペンハウアーが語っていたという「積極的に諦めることで人は幸せになれる」という話を耳にしました。R25編集部の書籍解説動画がきっかけだったのですが、そこである作家が「小2で人生を諦めた」と言っていたのが妙に印象に残っています。
自分はどうだったかというと、たぶん「小5で諦めてた」かなと思います。別にそのとき、何か衝撃的な出来事があったわけではないけれど、周囲に比べて光るものがないことや、人生そのものがくだらなくてつらいことの連続だと感じ始めていたんです。もちろん楽しいこともあったけれど、それ以上に苦痛や違和感が勝っていた。
同年代との衝突もありましたが、それ以上に年上の人との対立が多く、中学生になることに強い憂鬱を感じていました。よく「末っ子は生きるのが上手い」と言われますが、自分にはその要素はゼロだったと思います。
ただ、そうした気づきがあったとはいえ、当時はまだ達観していたわけではありません。野心のようなものもあったし、欲だって少なからずあった。でも、いろいろと行動してみたものの、今思えばすべて裏目に出たような気がします。
やるべきことをやらず、やる必要のないことに時間を使ってばかりいた。それでも「あれをやっておけばよかった」と思えるような選択肢も、実はなかった気がする。早い話が、自分には才能がなかったという単純な事実に、当時の自分は気づいていなかった。それに、思い込みも激しかったし、小心者でASD的な特性もあったのかもしれません。
無駄でダサいことだらけの過去を、今さら語るつもりはあまりありませんが、それでも「すべてが無駄だった」とは思いたくない。自分が根っからのエゴイストであることは認めるとしても、せめて「純真なエゴイスト」でありたい。それが40歳になった今の、ささやかな願いです。
40歳になって、ようやく少しだけ自分が何者なのか分かってきた気がします。とはいえ、それは自己理解が深まったというよりは、単に無茶ができなくなった分だけ「思慮深いフリ」をするようになっただけかもしれません。
小5の頃に感じた「人生はくだらないこととつらいことの連続」という直感は、40歳になってもおおむね当たっていたように思います。価値観がその頃に固まってしまっていて、ショーペンハウアー風に言えば「世界は私の表象である」ってことになるんでしょう。
よくTikTokやYouTubeショートで「若い人に伝えたいことはありますか?」と問われるような動画が流れてきますが、正直、自分だったら何も語りたくないですね。「老人の言うことは聞くな」とだけは言いたいけれど、まあそんなの言われなくても若い頃の自分は聞かないでしょうし、むしろそれで正しい。
人生の本質的な部分は、当事者である若い自分が、失敗を通して経験していくしかない。そして、経験から何も学ばない人もいる。というか、経験ってそもそも「学ぶためにある」ものではないんじゃないか、と思うこともあります。
ショーペンハウアーは晩年に『余録と補遺』によってようやく世間に認められ、「こうして私の名声の喜劇が始まった。こんな白髪の私に、どうしろというのだ」と語ったそうです。死後に評価されたモーツァルトやバッハよりは、まだマシだったのかもしれません。
哲学者って、世俗と逆行した価値観を持つからこそ魅力的ですが、ショーペンハウアーには人間味というか、世俗的な欲求もあり、そこがまた面白いところ。最近までヘーゲルを勉強していたのに、気づけばすっかりショーペンハウアーに心を奪われています(苦笑)。
仏教や論語にも、ショーペンハウアーと通じるような思想を感じます。キリスト教だって、信仰によって救われるという教えの中で「自分の努力で乗り越える」話は実はほとんどありません。真に賢い人というのは、基本的に「乗り越えない」。
『自省録』や『方法序説』、あるいはサルトルやヘーゲルの思想は、一見すると自己啓発的にも読めます。でも見方を変えれば、それらの中にも「諦めによる解決」は少なくないのです。むしろ、自意識を捨てることによって上手くいく、と示唆している教えが多い。
そう考えると、人生の本質は「諦めること」にあるのではないか、と思えてきます。
仮に「努力で人生を変えた」という人がいたら、本当に素晴らしいと思います。でも、彼らだって「努力するしかない」と諦めていたのかもしれません。何かを選ぶということは、必ず何かを諦めている。その“選択”の裏には、常に“諦め”がある。
集中力や判断力、結果を出す力もまた、何かを諦めることによって発揮されるものだとすれば、私たちは「諦めることでしか力を発揮できない」と言えるのかもしれません。
……なんて、屁理屈っぽいとは自分でも思います(笑)。けれど、「諦めが悪い」ということすら、思想的にはもう諦めているのかもしれません。
どんな諦めをしたかによって、結果は変わるかもしれないし、正しい諦めをすることが「人生をコントロールしている」という感覚につながるのかもしれません。でも、そこにこだわりすぎるのもどうかと思うし、結局どうでもいいのかもしれない。
諦めというのは、ある意味で環境因子の一つであり、知性や肉体の変化とも関係していて、自分を知る上で振り返る価値のあるテーマだとも思います。
最近では、AIが人間の思考を言語化してトレースすることが可能だと言われています。ということは、自分の思考を言語としてブログに書くことは、そのまま自分の頭脳を描く行為に他ならない。
人間が古典を読んで何千年も前の思想にふれることができるように、私たちは言葉を通して時代を超えて思考を共有している。だからこそ、私は限られた人生の時間で、自分の“表象”を描いていくしかない──。
そう考えるようになった今、ショーペンハウアーに興味が移ってきたのは、必然だったのかもしれません。
⋯私の幸福論という表題はChat-GPTに考えてもらった(苦笑)
Chat-GPTに頼めば、ブログ記事の表題までつけてくれるようで、大変便利だなぁ。
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