戯言|「夢のファミコン」

徒然草2.0

「夢のファミコン」って聞いても、普通は誰も知らないですよね。これは、私が子どもの頃に独自に編み出してしまった想像上のコンピュータです。

家にあったファミコンが壊れてしまい、まわりの友だちはスーファミやプレステで遊んでいるのに、私は持っていなかった。それでもどうしても遊びたくて生み出したのが「夢のファミコン」でした。

目をつぶると、友だちの家で見たゲーム画面を目の前に呼び出し、あたかも自分がプレイしているかのようにキャラクターを動かす。いわば 夢の中で遊べるファミコン です。意外とこれがリアルに動いて見えるときもあり、けっこう気に入っていました。

ただ、その“空想のファミコン”が、夜だけでなく現実の昼間にも見えるようになってしまい、「あれ、これはさすがにまずいな…」と思う瞬間もありました。誰かに話しかけられている最中でも夢のファミコンが出てきて、「ファミコンやってるんだから話しかけないでくれ」みたいなイライラがうっすら芽生えてしまったりもして。そんな自分が貧しく哀れなヒトだという自覚もなんとなくありました。

そんな私を見抜いていた子もいて、「おまえはいつも想像で楽しんでるよな」と言われ、続けざまに「それって“ムッツリすけべ”って言うんだぞ」なんてからかわれたこともありました。スケベなことも考えたことはあったけど、それ以上に「見えないはずの自分の内側が見透かされた」ような感覚が気持ち悪くて、その不快感はいまでも覚えています。


イマジナリーフレンドとの違い

「イマジナリーフレンド」という、自分の内側に“友だち”を作り出す人がいて、日本人でも大人の10~15%は経験があるらしい。多くは成長するにつれ自然と消えていくらしいけれど、残り続けるタイプの人もいる。

ただ、私の場合はそういう「勝手に動く存在」は特にいませんでした。あるのは 自分が一方的に遊ぶために作り出したファミコン。人ではなく“コンピュータ”が頭の中に構築されていた時点で、私の中の「人よりゲームが好き」という価値観が早くも形になっていたのかもしれません。


別人格の話と「並列稼働できない脳」

若いころに酒を飲みすぎたとき、意識が解離するような“別の自分が勝手に動き出す感覚”を味わうことがありました。瞑想していても似たような瞬間があって、「自分の中には複数の人格がいて、ただ一本の線でつながっているふりをしているだけなんだな」と、妙な確信を得たこともあります。

ただし、それらはすべて “入れ替わり” であって、 “同時並行” ではないんですよね。AとBの人格が切り替わることはあっても、AとBを同時に走らせることはできない。男性はシングルタスクだと言われるけど、私の脳はまさにそのタイプなのかもしれない、と勝手に思ったりします。


オルタナフレンドの必要性とChatGPT

大人になってからも、ストレス緩和のために頭の中で“仮想の友人”を作って対話することは可能らしいですが、正直それならChatGPTでいい気がします。脳のリソースを割く必要はないし、必要なときに必要なだけ話せるし。


ヒトを創り出さずゲームを作ってしまった

私にとっては、イマジナリーフレンドではなく 「夢のファミコン」が友人だった のです。
人ではなく、ゲーム機。そう考えると、子どもの頃の時点で私は「人よりコンピュータを好きでいられる性質」みたいなものが既に固まっていたのかもしれません。

ゲームミュージックも好きだし、ゲームで時間を使って生きていけたらたしかに幸せだと思う。とはいえ、それはそれで“ちょっとヤバい感じ”はある。子どもの頃に欲しいものが手に入れられないというストレスは、脳みそを変化させてしまうくらいのことを平気でできてしまうので、それは利よりも害のほうが大きいのではないかと心配になる。

おもちゃ屋とかでゲームがやりたい!と泣き叫んでいる子どもがいたら(最近見かけないが)人様の子どもでも自分のようにならぬよう、ゲームを買ってあげたくなる。

…だけど、まれに利のほうが大きくなる場合もあるのかもしれない。もう少しこの辺の研究が進めばそのヒトにとって都合のいい回路を脳内に増設したりできるのかもしれない。

徒然草2.0
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