解剖学者の養老孟司本を読んでいるせいだろうか。いやたぶん違うだろう。
まあ、養老孟司も遺族と何度も一悶着あったそうだが…現在、美容学者の黒田あいみという医師が遺体を前にピースした姿などがネットで問題視されているしNHKのニュースにもなったそうだ。
双方の言い分は分からないでもない。おふざけが過ぎたと言うのは分かるし、別に解剖する医者の肩を持つつもりはまったくないのだが、でも遺体は医学的にはただの遺体に過ぎないのに、私達(遺族)はその肉塊を家族の存在そのものだと思い込んでいる、
そこには、ある種の信仰があるのだということを自覚する。
自分の肉体はどうなってもいいが「子どもや親の体を解剖されたくない」という人は多くいるだろう。それもまたよくわかる。
大切な人であったものが人でないものまで分解されていい気分になるはずもない。
まだ、赤の他人であれば、いろいろな部位がホルマリン漬けにされていても何も思うところはないが、実際に生きている人だとすると私達は嫌な気持ちになってしまう。
と…すごいあっさりと書いたがw、それが人間の不思議なところだ。指が切り落とされたら、それは自分じゃなくなるが、遺体もまた死んだものなら、自分ではないものになるはずだ。
しかし、人はそうは捉えない。
数ヶ月前に私はマンションを買おうと思っていた。人が亡くなった物件だと聞いていた。あまり気にならないとは思っていたが、やはり実際に住んだら住んだで延々とそのことを思い出さずにはいられないだろう。思い出すことにそこまで害がないと思うか気持ち悪いと感じるかはさておき、他人の死という日常では無駄なことに頭を揺り動かさないといけないのは脳のリソースが勿体ないというかあまり健全ではない気がする。不意に訪れる家族の死に向き合うくらいでちょうどいいはず。遺体がなくても自覚して意識しだした他人の死は永遠に私達の脳にとりついてくるものだ。ましてや物質的に遺体がありそれが切り刻まれていくとしたら考えたくないものではないか。
もちろん自分や家族の死体を解剖されたくない権利はあっていいと思うのが、私の場合は医師は嫌いだし医学をどこか信用してはいないのでどこか矛盾する気もあるが、死んだら勝手にしてくれと思うかな。ドナーカードを持っていたことがあるが、捨ててしまった。事故で脳死したら生その場で暖かい臓腑を引きずり出されてドクドクと波打つ心臓を停止させられて身体が生きているかのように痙攣するのかもしれないというイメージを持ったら嫌な気持ちになった。首を切り落とされた食用カエルが熱湯を注がれて反射により生きている時と同様に体を動かして熱湯を嫌がる動きをする動画を見たことがあるが、脳がないので生きているわけではないというのはいい加減な判断だという気もしてくる。が、それを一個人が超える必要もないし自分はそこに立ち会いたくないが、もはや「好きにして」と思うかな。なんだか肉体への執着がありすぎる気もする。
医学の発展とか公共の福祉とか、移植による誰かの救済とか単に医師の利益のためという薄暗い想いが埋めいているかもしれない。誰かの利益にされるのは好かないが、とはいえこちとら死んでいるもんな。生の執着を捨てることは、肉体の所有を辞めることに、もしかしたら通じるのかもしれないし、生もしくは死と肉体の存在は突き詰めればリンクするようでリンクしない。遺体は生きていたものでもないし死んでしまったものでもない。
たしかに生きていた時は身体は動いていたし、死んでしまうことにより身体は動かないものになったが、死体は死んでしまった結果であって、死そのものではない。死体は生の現在形でも死の現在進行系でもないせいぜい過去形か過去完了形だ。
脳死判定されたが解剖される時に意識が戻って…生きたまま解剖されるという恐怖はあれど、まあ身体が動かないのでしょうがない。
しょうがないじゃすまないけど、実際にそのシチュエーションになることを想定してもしょうがない。
解剖医に「こいつは脂肪が多くてやりにくい。きゃはw」って言われながら切り刻まれればいい。
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