メタルが好きな人の性格とか、パンクロックが好きな人の性格とか、調べているけど音楽のジャンルが、そもそも私の理解を超えていることがある。あと音楽のジャンルが同じでも、属性の違いというものがあるだろう。
「好みの曲で性格が分かるらしい / クイーンやメタリカなど8曲のうちどれが好き?」については、音楽の質がそのまま性格/人格に直結するが、パンクロックが好きな人は頭が良く論理思考が得意な人が多いらしい。ふだんの人柄とは逆の性質を求めるということもあるのでひとえにこの音楽が好きな人はこういう人だとは言えない例外がどうしても残り確実性は低いのではないだろうか。
わりかしテクノは好きだが、ハウスやエレクトロニカやEDMとかになってくると違和感を感じはじめると思う。オールジャンルなんでもいいけど、わりとのんびりしているのは好かないかも。EDMは電子音楽でも苦手かも。ダンス系やディスコミュージックが必ずしもダメではない常に聞いていたい曲ではないかも。共感性が低いのかな。
和声学的になんて言えば知らないけど、多少の不協和音というかテンションを活かした曲もいい。気分にもよるが飽きっぽさが音楽に変化を求めるのかも知れないが、それは気分の形態(モード)によるかな。テクノがいいのはリズムが単調で心が落ち着くからだけど、例えばエンヤの曲とかは退屈だ。音楽はダイナミックなもので、そりゃ気分によって聞きたいジャンルは変わるでしょ。
「好きな音楽ジャンルは何ですか?」って一番困る質問では?といつも思う。
そんなことはふと思ったのはニュー・アカデミズムと日本の現代思想というのを考えていて、ニュー・アカデミズムってやっぱりあまり中身がないけど、なぜ今の今まで連綿と続いているんだろう?ということを考えていて、『ニッポンの思想』を読み進めるのが辛くなってきた。
東浩紀という「音楽」をどのように聞けばいいのか?がよく分からない。というか現代思想って音楽だろう?という気がしている。頭の中に流してみて、好きか嫌いかだけ。そのダイナミックさを好むか好まざるかにわけるだけ。
思想書を読む行為を格闘技か何か痛みを伴うものだと考えている人がいるがそれは何か間違えていないかな。いやマゾで痛みを伴う行為でなければ哲学じゃないと思っているそう思うは止めないし止められないと思うけど、心が心地よく揺れるかどうかがやっぱり重要じゃないかなと個人的に思う。(まあ、格闘技がロジカルでダンスに似た側面もあるので、そういう解釈もある気が私にはするけど、”知の格闘技”って聞けば一般の人はふつー”荒々しくぶつかり合う辛い行為”の隠喩かなと思います)
…などなどと考えていると、わざわざ読むに値するのかな??
ドゥルーズのリゾーム(根茎)はそのままADHD気質な人の頭の中であり、急に太くなったり細くなったり、あらぬところに繋がって抜けてでたら、次の瞬間にもう入っていたりするので。知性的な均衡がとれたものに形成されたらいいが、実に成らなければ他人には分からない混沌だけだ。混沌をどうにか知性にできれば、何か実になるはずだと思っていた時もあったが、混沌は混沌以上の何物でもない。ポストモダンの行く末に何も希望がないし、そういう人間が今更興味を持たぬのも至極当然のあらましだけど、未だに現代思想にわくてかする大人(40代以上)は、一体何を探しているんだろう?
自分より青臭い人に出会いたい。
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