西尾幹二が亡くなった。私がイメージする”戦後の保守”で、存命して”日本”について発言をし続けていたのは、西尾幹二ぐらいでは。例えば現代の保守は米国をパートナーと思っており米国に対する怒りを継承していないのでエセ保守に見える。
やたら分厚い『国民の歴史』は、日本人みんなが読まねばならないと思い読んでいた頃もあった。全然内容が思い出せないが。
現代の保守は百田尚樹の『日本国紀』をリビングの本棚に入れて読むのだろうか。日本国紀は内容に誤りが多く、読めたものではないらしい。ファクトチェックしながら読まないといけないといけないというのはなんともしんどい。だったら遊びに行ったどこかの家のリビングの本棚には『国民の歴史』を本棚に入れておいて欲しい。其の方が話が弾むかもしれない。内容を知らんのに話が弾むというのもおかしな話だが、相手がどういう思想の持ち主か分かっていいね。
そういえば私の家にはリビングがない。食卓に図書館から借りた本が何冊か平積みされているだけだ。ああこれが家主の思想なのかと思うとなんだか貧しい。経済的に貧しいというより精神文化的に貧しい(苦笑)。
西尾幹二はキリスト教=西洋文明を否定的にかつ日本文化を理解するための鏡として反キリスト教のニーチェを研究したのではないだろうか。新しい教科書をつくる会の人のイメージが強いがドイツ文学の研究者だが、そっちのほうにはあまり興味がいっていなかったので、今度またあらためて読んでみたいと思う。ブログもあって書いてある内容は濃くておもしろい。
筆者の主張が文章にリンクして難しい歴史が以外にもスーッと入ってくるので、今思えば西尾幹二の書籍は気軽に読める思想書のたぐいなのになんとなく避けていた。
「一つ一つ掘り下げてみた日本の歪曲歴史教科書」…東亜日報が新しい教科書を批判した2001年の記事なのだが教科書の内容が訂正されたことをあれこれ言う前に、西尾幹二が西岡幹二と表記が間違えられているところが気になってしまう。たぶん新しい教科書の活動に携わっていた歴史家の藤岡信勝と混ざって、西岡になってしまったのだろう。ちなみに、藤岡信勝の本は読みやすいサイズと内容なので何冊か読んだことがある。
あの頃に教科書一つであれこれ言われる世の中というか日本という国って一体なんなのだろうかと過去を振り返えりつつ未来をどう生きるべきかとか私自身が考えていた気がする。
政治批判をゲームシナリオに取り込み、たとえば『マンガ嫌韓流』みたいなストーリーにしたら勝手に朝鮮の方々が怒ってくれて宣伝になるなー!と炎上商法計画をたてたことがるが、そもそもゲームに政治思想を盛り込むことはプレーヤーにひどく嫌がられる傾向があるのでタブーだというのが、昨今のゲーム事情だ。探せばその手のインディーズゲームはあるのかもしれないが、意識的に探されないと発掘されない時点で、それが制作者の黒歴史に過ぎないことが確定されている。だったら日本人をアジテートする話のほうがまだ他国民というか隣人を嘲らないだけマシかな。結局、炎上商法を捨てきれてないと言えばそうだけど、現実とリンクしないゲームシナリオなんて詰まらないでしょう。現実と言えば現代人にとって政治に関わることは普遍のテーマなはずだと思ったが、よくよく考えてみると安直だ。ゲームシナリオとプレーヤーが融合する一体化する没入化する、ゲームとうバーチャルとリアルの垣根が見えなくなる感じになることと政治は関係ない。むしろ、現実逃避したいからこそゲームプレーヤーである人に超現実(現実より現実らしいもの)を提供して受け入れられるわけがないだろう。女の子にモテない男子がときめきメモリアルをはじめとするいろんなタイプの女の子とお付き合いするのがゲームであって、現実よりもモテることが不可能なディストピアを世界を描いたところでそれはゲームとは違います。アートでもない。独りよがりで制作者の自己満足な気持ち悪い世界でしかない。想像しただけで肌寒い。
ファミコンとかでゲーム会社をつくるゲームって探すと結構あるんだよね。だいたい面白くないというかすぐ飽きるんだけど。新しい教科書を作る会をゲーム化したら、敵対勢力とわちゃわちゃして面白いかと…いや、ゲームシステムが単純すぎて飽きるだろう(汗)。
…そんなくだらないことばかり考えていた私が『国民の歴史』なぞ読み切れるはずもない。
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