戯言。管理職は奴隷の長なのだろうか?

徒然草2.0

30を過ぎた頃からも聞かれるが40近くになれば、仕事を探しにおいて職務経歴書を出す採用面接などのシーンでは、ほぼ必ず「マネジメント経験」を問われる。そんなわけで自分というものをその都度振り返らなければならなかったりするのが面倒だ。面倒なんて言葉が口癖にでる時点で、自分は管理職に向いていないと思いつつも、でもチームリーダー的なことは嫌いじゃない。むしろ情報をとるためや自分の仕事を円滑に進めたいがために、当然だと思う行動をとっていれば一時的であるが、お山の大将(言葉の使い方が間違っている気がするが、まあいいや)になることは無きにしも非ずなわけで、そんな話を面接でして誤魔化している(面接官に見透かされているのは重々承知である)。(あ、でも管理経験は何も部下や後輩を使うことではなくて、PMBOKの定義によれば進捗管理や役員会議での説明なんかも管理職経験に含まれるのでは?と、個人的に思わなくもないがここでは「人を使う」ないしは「人を動かす」ことにフォーカスして「管理経験」を語っている)…けれど、本当のところどう回答をすればいいのか悩ましいと感じている。多くて5人くらいならば、面倒がみれるくらいに思ってくれればいいのだし、せいぜい自分はその程度なんだし、話を膨らませ過ぎないほうがいいところだろう。とまあいろんなことを考える。何十人も何百人もの人が使えるとサラリーマンとしては評価されるのだが、そんな経験や実績はないのだし。というか、総じて言えば、自分自身は「そんなことどうだっていい」と思っている節がある。まあ実に不遜なので、管理職にはメンタル的に向いていないというのが自分のすべてだ(苦笑)。

苫米地英人「40歳から差がつく生き方」という無料の電子書籍を読んでいたら、管理職は奴隷の長と書いてあった。日本社会批判の本である。内容がとんがりすぎていて日本社会の中に巣食うムシのひとりとしては、全てを真に受けて行動したら「生きていけない」と思う一方、この本には一定の正しさもやはりあるわけで、そのへん(自分の行動と思考をどう持つべきか?)っていうのは難しいところだよな…とか思ったりしている。

私たちは…一定の向上心があったとしても、一定のコミュニケーション力を持たなかったり、他人の中傷を無視できず感情的になるとか、退屈で非生産的な仕事を疑問を持たず黙々とこなせるとか、堪え性のなさがなかったりする者(つうか言ってしまえば私ってことでいいやw)、端的に言って日本社会に向いていないだろう…だからといって、世界に出れば評価されるかと言えば、世界を相手にする努力を怠っている…怠っているというのは怠惰という意味ではなくて、もっと広義の「するべき努力がわからなかった」「努力しても学べない環境にあった」「努力しても身に着けられない心身(内部要因)」も含めて言えることだが。結局はにっちもさっちもいかない選べない状態にいる。突き詰めれば、リスクを恐れて現状に甘えるか、リスクをとって未来を勝ち取るか、2つに1つの結果を選ばなければならない気がする。

大半の人は「今のまま頑張っていればいい」と思い込めるらしいが、どうも自分は非凡であってはならないと思いこんでいるところがあるらしいが、それは自分の性質なのだから致し方ない。(それによって、周囲からは「おかしい」と思われていても、悪い性質だとは思わないなあ)でも、現在の自分はチャレンジングなことをしている風な心持ちでいるけれど、実際は忙しさにかまけて保守的になっているだけだな、と思っているなあ。

で、やっと本論なのですが、管理職から逃げていると思ってきたけど、いざ管理職の勉強をしてみると、管理職に逃げている自分がいるんですよね。

結局は、あれか、これか、なんだあ。自分は奴隷長ではなく奴隷を極めたほうがいいし、実際に中途半端に長になるなら、奴隷を極めたほうがマシな気がするんですよね。

徒然草2.0
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