戯言。空手に流派無し。仏教に宗派無し。

徒然草2.0

たぶん嫌味で言っているわけではないのでしょうが、とあるスピリチュアル系のブログを読んでいたら、「クリヤヨガ以外に悟りに至る道なし」と言っている人がいました。

まあ、たぶんこの人は「クリヤヨガが気に入っている」だけであり、別にクリヤヨガをやらず悟りに至る道を探している人は阿呆だとか偽物だとか排他的かつ独善的なことを言っているわけではないので、そんなようなことを考えるというか捉える私が考え過ぎなのでしょう。

パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』でブッダが取り組んで悟りに至った時にやっていたのがクリヤヨガみたいなことが書かれていた気がするので、誰でも悟りに至る正当な方法論という意味で述べているのかもしれません。

つまるところ悟りに至るメソッドの唯一性のことを言っていることになる。

あんまそういうこと言わないほうがいいんじゃないかなあ、と思っています。

プログラミング的に言えばpythonの思想「誰が書いても同じようなコードになる」よりもラリー・ウォールの「There is more than one way to do it!」解決方法はたくさんあるという言葉を好く。

そういやあ、とある精神科医に「日蓮は悟っていなかったと思う」などと言われたことがあります。法華経や立正安国論あたりを読んでいてそのようなことを言ったのかもしれません、私が以前に「法華経はトートロジーが多いし(論理学的には)無意味な気がする」みたいなことを言ったせいもあるのかもしれません。分析哲学的な観点から言えば法華経ってなんか無意味に感じてしまうというか。だからといって、そう言い切るとやはりこれを信奉している人からすると…帰依を誓って「南無妙法蓮華経」と題目を唱えている人に言っちゃあいけない言葉だと思います。誰もが仏に慣れる道が在るんだよという意味では、法華経の良いところは、「おいらが最強で至上の経典だよ」とかヒエラルキーを語りつつ、同じ「悟り」でも阿羅漢や独覚よりも優れているとか語られる。同じ悟りでも差異があることを滔々と説かれる。

悟りへ至る道(プロセス)は複数あることを認めつつ状態(ステータス)には大きな差があることを表している。

ここは人によっては、悟りについての評価の是非が分かれることでしょう。

ただ、私が現時点において言えることは、表題にある通りで「仏教に宗派無し」なんじゃないでしょうか。

もっと言えば「宗教に分類無し」ということも言いたい。

…これはもう表立って言い出すともう論理的に現行の宗教を使って語ろうと矛盾だらけに至るので、ラーマクリシュナみたいな神秘主義者を気取る他にはないのであるけど、それでいいんじゃないかなと最近(というかかなり以前から)思っていることだ。

まあ、とりあえず自分もその手の人間であるが「無宗派」な仏教徒が日本には増えていると思う(またその無宗派も様々で全く同じ思想があるとは思えないのだが)ので、その手の人に向けた仏教的取り組みとして新しい「言語」が必要なのではないだろうか?と思っている。宗派に拘らない墓を提供する寺院とかも特に都会の寺では商売用の理由でそうしているし時代に合わせる必要というか、市場の自然な要請だろうし。そこにみんなが納得する(べつに一部の人がひどく気に入るでもマーケティング的にはいいけど)言葉を発明したい。

徒然草2.0
スポンサーリンク
シェアする
gomiryoをフォローする
ごみぶろぐ

コメント

タイトルとURLをコピーしました