無限。止めどなく広がる茫漠の彼方は、一体どうなっているのだろう。
仕事に追われて、人が作り出し知識を頭に詰め込んでいると、そんな無限に対しての意識が向かなくなるよな。逆に無限を考えることに頭をもたげると無限に興味がない人の気持ちがわからなくなるが。
人生において無限はどうだっていいものなのかもしれないが、ふと一人になると無限のことしか意識がいかくなる。
そしてそれが、重要なものだと思えてくる。
きっと暇さえあれば自分も無限に思いを馳せるようになるのかもしれないが、仕事に追われていると、ありきたりの概念をループさせてこねくり回す「アルゴリズム」ばかりに気を取られて忘れ去られてしまっている。
心を失っている=忙しいと無限に対する他人がデザインしたものに興味を持たなくなるわけだが、おおむね多くの宗教はそれをよしとせず無限に向き合う時間を作るように強制する。強制という言葉がすこし問題があるなら「習慣」でも「戒律」でも構わないが、無限につながり創造する時間を信徒に勧める。
なんでだろう?べつに宗教が統制装置であるならば、そんなことを「習慣」にさせなくとも「労働」にムチを打つなりして駆り出せばいいのに、なぜ「無限」に信徒を回帰させる時間を作り出したのだろうか?そのほうがシステムに組み込みやすいのだろうか?政治を主として宗教による統治によるプログラムなのだろうか?
うーん、このへんのことにしっかり回答している人って世の中にあまりいない気がするんですよね。宗教者ではなく哲学者もしくは無神論者によって回答してほしいところですが。。。
話は変わるが、ニーチェはキリスト教を激烈に否定した哲学者というイメージが強いが実際は「ユダヤ教的な怨恨感情とは無縁な徹底的な無抵抗主義であったイエスの宗教を、パウロが偽造し、再び支配階級への怨恨感情に基づく宗教へと仕立て上げたことを、厳しく糾弾している」に過ぎず、一切価値の転換やら永劫回帰とかの思想もキリスト教に根付いてそこから生み出されてきたものに過ぎない。
彼もまた無限について思いを馳せた哲学者の一人なのだなとふと気づいた。
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