急に表題とは関係ない話から入りますし(銀河英雄伝説の中に限らない話ですが)「民衆が英雄を発願し始める」って歴史的な状況を見てみたいなーとふと思うことがあります。それだけ日本社会が悪くなり日本も聚落の一途を辿ることが確定路線ならば、せめてリアルな世界で暗黒の中で光(希望)が持てる人物というものの登場を見たいではありませんか。ただたんにストーリー的に様(さま)になると思っているだけですが。ジャンヌ・ダルクは歴史的にどういう立場で何をやったか分かりませんが、ジャンヌ・ダルク的な人物が日本にも現れたりするのかどうなのか?リアルタイムで見てみたいです。私も日本の国民のひとりという意味では、無責任な傍観者の立場でずいぶん適当なことを言っているとは思いますけどね。
政界的にはれいわ新選組の山本太郎が英雄なのかもしれません。2023年7月の毎日新聞の支持率調査では国民民主党や共産党を押さえた支持率をれいわ新選組が得ています。無党派層や立憲民主党支持者が、れいわ指示に傾いているだけだ、と言われればそれまでかもしれませんが、その他の自民党サテライト政党以外の野党の存在感が、まるでない気が個人的にはしています。いい意味でも悪い意味でも目立ち続けるというのは国民投票で決まる民主政において非常に重要なファクターです。(自民党や民主党の中にもいろんな考えの人がいるという人もいますが、あなたの政治信条を代返するキャラが立っている人いますか?)日本共産党も一時若い人の指示を得たことがありますが最近はいい話をあまり聞きません。玉木雄一郎「日本国民は血を流す覚悟ができるか」は、自由主義国の日本人はと言い換えれば、もしかしたら「民主主義を守るために血を流す覚悟ができるか?」と言い換えて聞けなくもありませんが、この発言を支持できますでしょうか。詳しく色々な人にインタビューしてみたいです。
…で、ここでようやく本題なのですが、私は銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーの考え方が好きだと思っていますというか(ヤンは作者・田中芳樹の考えそのものですが)ヤンの政治思想を正しく理解しているか?という自信があるかと言われれば、それは大変苦しいです。ましてや、そのことを他人に説明するだけの能力と知性が私にはありません。だから、少しずつ考察を勧めてみようと、ふと思い至りました。これが、この記事のテーマです。
英国の詩人シーラーは「自由か、しからずんば死を与えよ」と言ったそうですが、まず日本人は民主政を戦後GHQから押し付けられただけで、そもそも民主制を性格な意味で理解できる土壌にないのではないか?という問題があります(『日本教の社会学』戦後日本は民主主義国家にあらず 山本七平/小室直樹 著に詳しい)。
あなた(日本人)に対して、民主政ないしは日本国を守る気持ちがあるか?…という問いにYesを回答できるか?
という問いを立ててみたのですが、日本国はともかく民主政を守るってなんぞや?という疑問が私の中にふと沸き起こりました。…そもそも、制度を守るから死ねというコンテクストを、日本人は理解できないのではないだろうか。なぜなら、コンテクストがない文化だからである。制度のために死ねと言われてYesと言う。これが正しいわけでもありません。
第一、ヤンはそんなことを言っていない。ヤン自信はともかく、ユリアンをはじめ他のメンツにそれを課すことはしていない。ヤンの考える本人が守ろうとしている自由はもっと重いものである。
ヤン・ウェンリー「絶対的な善と完全な悪が存在する、という考えは、おそらく人間の精神をかぎりなく荒廃させるだろう」ここでいう悪の主語は銀河帝国&ラインハルトですが、ようは善悪という言葉の強さはさておき、物事は二元論で単純に考えられるようなものではないんだよというようなニュアンスでしょうか。
個人の自由が保たれており、自由をもとに選択をする、ということが重要なのだ。が、これ非常に”重い”ですよ。個人としての責任が問われるわけです。守るべき自由はかようにも重いのか!と驚かざるを得ない。まさにシーラーがいう「自由か、しからずんば死か」という具合にヤンは殉死するわけだが、ヤンに共感すると言っているうちは幼いユリアンと同じ精神だと言わざるを得ない。
だいたい…私は、個人や自由(自由意志)という概念は成立しないと思っている。ただこれはこれで、いろいろな問題が発生して、というか現実の問題において自分の主張や自分の存在に、論理的な根拠が無くなってしまう。自分の存在を認めてもらう=”個人である”そのために自由という重責を背負わないといけないのだろうか?ということになる。そうなると、いよいよ私の発言は論理破綻する。結論を言えば私たちはそもそも、ヤンの考えを理解できても実践はできない。
この記事は最初と最後で言っていることが違うが、感性と理性では違う結論が出るというのが、銀河英雄伝説の魅力でもある(と適当なことをいって今回の記事は終わらせておいて、)民主主義とは何か?について考える布石にしようと思う。
これは仮説であるが、簡単に私の考えを述べておくと…民主主義はキリスト教のアンチテーゼであって、キリスト教の信仰なくしてジンテーゼには至らない。民主政はあくまで唯一神を認めた上でのフレームワークに過ぎない。だから、信仰心なくして民主制を了解することは不可能。ジンテーゼだけを民衆の上に政治として展開しても、側だけで中身がないものになる。第一、日本の第一政党である自民党員は、民主政を多くの日本人と同様に理解(も信仰)もしないばかりか、(国民)主権や人権をも否定するような発言すらしている。
カタチだけの民主政ではないものを作ろうとしている英雄がいるとしたらそれはだれに期待すべきか?それともどだい無理な話なのか。まあ、後者の方が濃厚であるが、それでもつらい時に人はひとすじの光を求めるものではないか。
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