私は儒教に個人的な恨みはありませんし、統治のシステムとしての儒教は嫌いではなく、むしろ、論語やら朱子学やら陽明学は、わりと肯定的に受け止めています。
…はっきり言うと思想としては、好きな部類かな。
たぶん、馴染むという感覚があるのでしょう。
なぜなら、日本は儒教文化のある国であり、日本人であれば文化として受け入れて(ソフトウェア的にインストールされて)いるから。周囲にもそれがはっきりと儒教の空気として醸成されているという感じです。
しかし、一方で、それを好まない人もいる。
でも、日本人の儒教嫌悪感は二重性で構成されており、早い話が極めてご都合主義的な気がします。結論から言えば、儒教が悪いのではなく、現代に合わないシステムなのに気風として残っているところに居心地の良さよりも居心地の悪さを認識する機会が多いです。
…まあ、「儒教は好き」と言っておいて何ですが、これは自分の話です。
例えば、年齢がばらばらのグループで集まった時、年配者に対して敬うような姿勢をとると、酷く嫌がる人っています。
気持ちはわかります。まあ、私もその一人だと思います。逆になぜか年上を敬う空気につられて行動せざるを得なくなり、セミナーに参加した側のはずが気づいたら、シニアをサポートする役割にこき使われていたりして、あれれ?と不思議なことになります。
初対面の年下の人にへいこらされると「ちょっと、それはやめて」と言いたくなって、フラットな関係でいいよと思う。
でもその一方、生意気を言うと怒りたくなったりもする。早い話が自分は面倒な老人なわけですが、冷静になって考えてみて年下だから許せない礼を削いだ発言とか行動だったと言えるならば、儒教の空気を受け入れている、(老人の)自分が慣れてしまっている…ということもあるのでしょう。そのような儒教的な老害というか面倒な老人、都合がいい老人と、ひと悶着あっても何のメリットも若い人にはないので、非常に丁寧に遇するのが無難という選択になりがちです。
…でもね、それに慣れすぎちゃダメではないか?と心の何処かで思っている。むしろ儒教をどう攻略するのがいいのか?と考えてみたりもする。
私たちは無意識のレベルで儒教の空気に支配される。だから逆に儒教の空気を意識的に汲み取った上で、柔軟にルールに従ったりもしつつ、時に意識的に壊してローカルルールを作ったり、思想をカスタマイズ-折衷案を生み出していかないといけない。
感情的になるのはダメで一歩退いた上で最適解を導いていくことが肝要である。
が、正直言うとワンパンですべてぶっ壊したい。そのほうがスッキリする。
と、まあ色々なことを書いたが短気な私のことを自己分析的・自己批判的に書いただけなので、あまり気にしないでください。けして日本社会を敵に回すことなんてことは考えていません(苦笑)などと、かなり無理筋なことを言っておきます。
-完-
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