戯言。情報非対称性と限定合理性。ステップ・バイ・ステップの思考が齎す最悪の結果。

徒然草2.0

ある人がフルマラソンを4時間で走りきりたいという目標を立てたとしよう。

その人はフルマラソンを8時間で走れる人だとする。

彼は少しずつ時間を短縮していけば、やがて4時間で走り切る日がくるかもしれないと考えた。

…つまり、ステップ・バイ・ステップで努力を積み重ねる必要があると思った。

1ヶ月がんばって練習に励んだところ、フルマラソンを7時間で走れるようになった。

3ヶ月がんばって練習に励んだところ、フルマラソンを6時間で走れるようになった。

12ヶ月がんばって練習に励んだところ、フルマラソンを5時間で走れるようになった。

トータル16ヶ月すごい大変だった。

しかし、もうこれ以上努力しても時間が短縮する気がおきなくなってしまった…ということって誰しもよくないだろうか?

そもそも8時間が5時間に短縮している時点でこの人はすごいわけで、ほとんどの人はフルマラソンを走り切ることができない(私も走ったことがない)私だったら走っただけで満足してしまうと思う。。

…このような人が実際にいるのかは分からない。

これは私の創作であるが…ステップ・バイ・ステップ形式で目標設定することの問題を例えている話だ。目標から逆算して結果を出そうと努力する。これだけでも大変であるが…この人はある過ちを犯している。

…あることを知らなかった。

それは「限定合理性」という概念である。

人は誰しも合理的に最適な行動をとろうとするが、認識には限界があるので最適な選択をすることができないという意味だ…実際に彼はフルマラソンを4時間で走り切ることができなさそうだ…と思ってしまっていた。無理もない。というのは、走り切る時間の短縮幅を見てみると、5時間から4時間に至るのに5年間もかかりそうだということに気づいてしまったからだ。時間の短縮幅が縮まる速度が鈍化していることに日々イライラしていた。

最初は体が軽くなり走るのを楽しめていたがタイムが縮まりにくくなりトレーニングを続けるのに限界を感じてしまった。これ以上の苦痛を感じながら5年間もトレーニングを継続する自信がもうなかったし、そうして得た4時間で走り切る目標を達成したからと言って、別に誰かから褒められるものでもなかった。4時間で走る意味なんかない気がしてしまったのだ。ここで彼がフルマラソンを走る動機は無くなってしまったのだった。

実際に彼は、ひとりでトレーニングを積んでいたため、マラソンのフォームや呼吸方法が間違っていた。履いているシューズも彼の足に合っていなかった。また、トレーニング方法も間違っていた。専属のコーチをつけていれば、もっと楽に1年位で4時間で走り切る壁を越えていた。またSNSやサークル活動を行って友好関係を広げることで、走る楽しさを分かち合える仲間と知り合うことができて、走るのが楽しくて楽しくてたまらないきもちになっている…という人生もあったかもしれない…としたらどうだろうか?

しかし、往々にしてそういう可能性は実際結構あるわけです。しかし、私達の認識には限界があり、私達が見えていないことなどいっぱいあるから、どんなに合理的で正しい判断をしようとしてもできないものです。

私よりも正しく物事が見られる人がいるとする。これを情報非対称性という。そういう人は情報があるというだけで、現在の私よりもアドバンテージがある。もともとの能力が同じであるにも関わらず、持っている情報が違うだけで最終的な結果が変わってしまう。一体どうしてこんなにも残酷なことが起こるのだろうか?

もうすでに答えは書いたが必要な情報が視えていないからだ。

重要なのは…可能性の扉を開くことであるが、そのためには「限定合理性」というものがあり、自分が正しい判断ができていないことを疑うことが大事だということになる。知っている人に教えてもらえば、結果が変わるのだから、調べたり分かりそうな人にたずねたりして、情報格差を無くしていかなければならないということになるだろう。

逆に盲点を無くし、ゴールが見えるようになれば、最短で目標を達成することができるということになる。はじめから未来の輝かしい姿が視えていれば、全く悩む必要はなかったのだ。悩みがなくなればしかるべき努力をするので、努力はつらいものではなくなるだろう。努力がつらくなるのは、ステップ・バイ・ステップで目標にたどり着ける気がしないからだ。確かな方法論が視えていれば努力は容易である。

…さて、残酷な物語が希望に変わるのは一体なにによってですか?

徒然草2.0
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