別に達観できるほど悟り得るほどに老人になったつもりはないが、もがき苦しんでいる。きっと、もがき苦しんで死ぬか、そのうちもがき苦しまなくても生きられるようになって死ぬかの、いずれかだろう…できれば後者のほうがありがたいが、年をとると、”もがきくるしんでいる自分”というものが、自分でありながらどこか遠い存在に思えてくるところがある。
自分でありながら客観視している感じがすると言えば聞こえはいいが。
…精神的なものだと思うが、当事者なのにどこか赤の他人だ。これは悪く言えば無責任だ「ぼくがやっていることではなく、体が勝手にやっているんです」と20歳過ぎて言っていても許されないが40歳過ぎて言っていたらたぶん○ったほうがいい。危ない。が、たぶんそういうことではない。過去の業を積み上げてきた鬱病患者がある時を境に分裂的な発言を仕出したというわけではない。
分裂的に少し違う話をするが、精神と肉体これらを100%分離することに成功できた時に悟りを開いたことになるのかもしれない。年を取ると耄碌して意識と自我の距離が勝手に離れて100%は分離せずとも交わるところがが離れて限りなく交わりが0に漸近していき結びつきが解けていく。悪く言えば確り締まっていたところが緩くなり歪んでいく。哲学用語で言うと差延。これが完全に0になったら悟る…というより、魂と肉の器が分離してニルヴァーナになると言ったほうがいい。かっこよく言ってみたが涅槃である。即ち、死ぬということ。
話を表題に戻すと、悩みや不安は老人になるとこれらも大切なものだと思えてくるらしい。個体が適切な行動をしなければならないならアクセルを踏みながら同時にブレーキを踏んでいることになるので不合理だし非効率。
でも結論から言えば、なるようにしかならない。
悩みは不安はとしをとると経験的に実は是も非もなく薄くなっていく。それを完成と言えば老人の心持ちがいいというだけで、実際は死ぬための準備だろう。生物として死ぬ準備がはじまったのだ。
上杉鷹山(うえすぎ ようざん)は「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」と言ったがマッチョだよな。この人を称える人は多いが、私は好きじゃない。いや正確に言えば上杉鷹山は嫌いじゃないし、言っていることはその通りで正しいと思う。ただ偉そうに言われるのが嫌だ。そういう意味では上杉鷹山は立派な人物だし好きで、上杉鷹山を好きな人が嫌いなだけ。つまりは「自分が嫌い」ということ。上杉鷹山の別の言葉にある「見切り1000両」とは人で言えば見限るということだ。領民思いの盟主で破綻寸前の米沢藩を持ち直させたことは確かだが、手放しで称えている人はどこか鼻につく。
なるようにしかならないよ、ぐらいのニュアンスが日々の自分にはちょうどいい。
老子の無為自然という言葉が好きだが、老子の思想も突き詰めると合理的な国家論なんだよな。だから別に諦めているわけではなくていい意味で諦めている。そこに無理がない。作為がないということが重要ってことかな。最近、老子の思想というものにふれていないが、自分がその境地に近づいてきたのかもしれない。
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