「よく分からない言葉があったら辞書でひきなさい」
…などと大人は子どもに向かって小賢しいことを言ってみたりするわけだけど、馴染まない言葉は意味が頭にはいってこないし、そもそも昔の人の言葉の意味が辞書を読んだ程度で、字面を見て分かったつもりになっても、その理解には体験が伴わなきゃだたの記号・シンボルに過ぎないと思うことが多々ある。
例えば、「黄昏(たそがれ)」という言葉は夕焼けだとか、「逢魔が時(おうまがとき)」は夕焼けの少し後だ、とか分かったところで、そこに自分なりの感性というか経験がのってこないと、その言葉は使えないし読んでも分からないと思う。
都会に住んでいると「逢魔が時」って言っても実感がない。別に夜でも外は明るいし治安がいいので闇に恐怖を感じない。うちの子は闇を怖がらない。闇に恐怖を感じないのって、何だかダメなんじゃないか?かつて人にとって闇は危険が潜む怖いものだったが、都会人のとって闇は鮮やかなネオンの背景だ。スタイリッシュなナイトモードというわけで吸い込まれそうな「悪」と感じない人も増えているのかもしれない。でも最近知ったのだけど、宇宙は永遠の闇であり「怖い」と考える人が一定数いる。宇宙のことを考えていると怖くなる人というのがいるらしい。私は逆に宇宙を想像すると永遠を感じられてディスカバリー!な気分になるが、宇宙をカオスであり闇だと考えるひともいるようだ。私には層言えばそういう感覚がない。カオスと悪と宇宙が結びついておらず別の概念になっている。私みたいな感性の人とそうではない人ときれいに分かれるっぽい。宇宙を永久の闇だということは理解できても経験が伴わないといずれ忘れちゃうなあ。
話を戻す。経験が伴わない言葉は、使ってみるといいと国語の先生が言っていたが、無理して使ってみたところで、ただ歯が浮いたような状態になるだけ。まあ、それを分かっていて私は使いたがりやで褒めてほしくて使ってみるんだけど、いやはややっぱりなじまない。で、いずれ忘れるか、本を読んでいてなじまなかった言葉に出会うと、好きになれない知人に出会った気分になる。きみとはむかし遊んだけどあまりおもしろくなかったね。という記憶が鮮明に蘇る。避けて通る。ま、それも自分を構成する重要な記憶ではあるのだが。
…いつか馴染む出来事が、経験が、ぼくにもあるはずだとか思って、背伸びして言葉を使うんだけど、これがいっこうに訪れず、ずっと表面的な字面だけの言葉のままになっている。いっそつかえない言葉をすてたほうがマシなのだと思ったりする。
他人が使っているのを見て、使う資格がある人がいると、あこがれるというか、ほっとするというか。人が言葉を選ぶのではなく、言葉は人を選ぶようだ。
辞書を引くと辞書を引いただけで分かったつもりになってしまう。
辞書を自分で引かないと覚えられないとか、わけわからないことを言う人がいうが違うと思う。
感性や経験を伴わない辞書を引いた言葉なんて結局はそのほとんどが使えない。
言葉を選んでいるうちに、言葉に自分が選ばれていないことに気がつく。
感性や経験を言葉にリンクさせる作業が重要になってくるはず。
その前に感性や経験が先立つ。
だから、あえていえば、書を捨てて街に出よ、でもいいけど、辞書を片手に街に出よ、かな?
文字情報と経験をセットで揃えてこそ後で役に立つ、かもしれない。
今風にいえば、スマホでググりながら旅をしろ、になるんだろうか。
でもそれだと、スマホしているだけな人とあまり変わらないような?
旅というのはトラベルというよりは人生を歩めかな。
なんか小賢しい。これはダメだ。
私は言葉に選ばれていない。
訓戒:小賢しいことを言う大人になるな。
キャバ嬢に「物知りなんですね」と言っておけば喜ぶ、
ちょろいオヤジ認定されるだけ。
いずれにしても極論は、辞書をもたず経験を多くだと思う。
なのであえていえば「辞書を持つな」になる理(ことわり)。
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