戯言。大乗仏教のご都合主義?なぜ般若心経で観自在菩薩は舎利弗に教えを説くのか?

徒然草2.0

結論から言えば、大乗仏教がご都合主義で、色々な釈迦牟尼像を描いているその1つであるということ…に過ぎない。ようは方便(仏教を伝えるための例えであれば多少の嘘があってもOK)ってこと。

「菩薩」とは釈迦が修行している姿なので「修行者が何で弟子の舎利弗に教えを説いているのだろうか?」という疑念が湧く…ということで調べてみると、色々な説がある。少なくとも般若心経は原始仏教/上座部仏教/小乗仏教(とは今はあまり言わないのかもしれないが)と比べて後にできた釈迦の教えにプラスアルファしたモノだから、ある意味でとてもご都合主義的なものである。ただ、修行者が弟子に教えている頓珍漢なお話と言い切ってしまうのは早計。そもそも大乗仏教の釈迦牟尼は色々な姿で衆生に教えを説いており、別に般若心経で”観自在菩薩”が”舎利弗”に教えを伝えているシーンをクローズアップして批判することには何の意味もないというか非常にアンバランスな批判だ。なぜなら、般若心経を否定するのならば、例えば千手観音や大日如来も否定しないといけなくなる。早い話が日本仏教が壊滅に至る全否定と等価の事を言っていることになる。「そのつもり」で仏教をデコントラクションしたいなら「どうぞ」って感じですが…不動明王なんて仏じゃないだの、愛染明王に愛がついているから恋愛成就の仏だのと言っている○カップルを錫杖で叩いて仏罰を与えないと気がすまない人になのか?って話になり、ようは忙しくて千手観音でないとモグラ叩き困難になるぞ(それでも千手観音の存在を認めないか?)。あと、般若心経はそもそも釈迦の教えではないからであり”偽経”だと言われたこともあるが、それなら現存するすべてのお経が偽経だ。釈尊は文章で残しそうとしなかったのだから(サンスクリット語で書くんじゃねーと弟子かだれかに言っていたと思う)だからテキストにされた時点で…脚色されたものだと言えてしまう。そんな状態なので、やれ阿含経が一番だの華厳経が一番だの法華経が一番だのと言い始めることになって、行末は仏教の分断が引き起こされる(事実、SNSで日本人と仏教を語り合っても宗派が違えば、だいたい話がまとまるわけがない)。

ただ、それはそれでそうして仏教の差異を明確にして理解することには、一定の意味はあると思う。やってはいけないのは、一緒くたに仏教が目指す道は1つであると統一的な見解に総合することのほうなのかもしれない(多様性を認めるという観点からは「みんな違ってそれでいい」のだから)

まとめると…

お経はすべて方便(嘘)であり釈迦の哲学を伝えるものじゃない…そんなことは知っている。

仏教が至る道は1つのゴールに通じる…それは無理がある。しかしながら、今までの話をまったく逆のことを言うが、だからこそ私はそういう統一的な理論を構築したいと思っている。

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