戯言。和解。

徒然草2.0

おかしな夢をみた。遠い昔にあった人と和解する夢。

和解とは、もめ事のある相手と仲良しとは言わないまでも、人間関係に支障がないやり取りが可能な状態に戻すことを指すよな。敵対する相手の態度が変わることを期待したアプローチだと思っていた。だけど実際には自分の態度を軟化させることの方が、はるかに大切なのではないか。他人のことより自分のことのほうが、直しやすいって言うじゃないですか。多くの部分は自分の問題と、とらえざるをえないっていうか。

和解で思い出したが、父親との和解について書かれた「暗夜行路」という(志賀直哉にしては)長編小説があるけど、あれって何度か挑戦したけど読まずに途中で諦めている。今なら、今の心境ならば、もしかしたら読み切れるかもしれないという気がしてきている。

昨日、夢で自分を嫌っていると思っている人が出てきて(相手が嫌っているかは知らないけど)、夢の中で和解した。和解させられたと言って良いのかもしれない。たまに別の人とは夢の中で喧嘩していることもあるが。というかその方が多いが。和解っていうシーンは大変めずらしい。春だからだろうか。なにか氷の塊のようなものが自然と溶けた。和解するということは基本的に人というものは協力しあわないと、非効率的になることから人間社会においては、個人の生存を維持するため、集団の秩序を保つためにもほぼ必要な作用である気がする。

夢の中の行いは有意識化よりも無意識領域での出来事であり、その中での和解は健全なものかもしれない。逆にずっと恨んで恨んで裏見通す方が不自然だろう。そうすることにどれだけの価値があるのだろうか。永遠に恨み続けることは疲れる。

しかし、有意識化されているほうが今度は違和感を唱えている。これでいいのだろうか?と恨んで恨んで恨みぬいてってほどじゃないけど…関わらないと決めたのに、また関わろうとするのはズルいではないか。捨てると決めたら捨てるのが道じゃあないのか、という気もして2つの心が同じ方向を向いて進むことがない。

まあ、それは別にどうでもいいけど「気がわりしたという」ことは、自分に備わった作用みたいなもので勝手に行われるものなのだなと。勝手に行われるから逆らえないものだし、それは呼び起こそうとして呼び起こせるものでもない。待つしか無いわけで、マネジメントできるものではない。もしマネジメントできるとしたら、和解の前の拒絶に至らないことだが。冷えきったら温まらないから、溶けてくるのを待たねばならない。溶けるかどうかもその人次第。みんなが同じかどうかはわからないし、溶けてじゃあすぐそれで解決というほど単純ではない。

で、だいたい「和解」は美しいものではなく、自分が和解したい相手としか和解が起こらない。自分にとってどうでもいい相手とは起こらない。端的にいえば利己的でゲンキンだ。ひとことでいえば思い上がるのと一緒な心理作用な気がする。良く言えば自分がこの世の中を生きていくにあたって必要な行為としての和解であって、昔の出来事に対する精算は行われていない。

ひどいことを言ったのは相手を貶めたいからではなく離れたいからみたいなこともある。女々しいやりかたなのは自分が女の部分もあるからか。勝手に女の部分ときめつけると、誰かに怒られそうだが。問題をべつのことにすり替えるがw,LGBT問題ってめんどうだ。

徒然草2.0
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