仕事に性を出してみたって、”天井”が見えていると色々な言い訳ばかり思いつく。仕事から遠ざかりたい時もある…。仕事がすぐに嫌になってしまう。
女性に優しい世界というやつは、マッチョな昭和の台詞も流行らない時代かもしれない。しかしながら、絶対的に自分にとって”いい言葉だな”と思うのは、どこか男臭いものだったりする。人に言われたくないが、自分で言う分にはいい。
そして、一定の真理がそこにある。
仕事がいつものようにうまくいかなくて嫌になっていた時、ある人に聞いたことがある「あなたはなぜこんなに仕事をがんばれるのか?」と。
その人はいつも生き生きと働いている人で、周りから尊敬されていた男だ。
彼もまた、きっと「自由になりたいとか、お金持ちになりたい」とか、多くの人がそうであるように”胡散臭い夢や目標“を語ってくれるだろうと、私は軽薄な心持ちで勝手な期待をしていた。
だが、思惑通りの回答をもらえなかった。
…というより、私自身とても恥ずかしい気持ちになった。
彼は「なぜそんな質問が出てくるのか分からない」と怪訝な顔をしてから、たしかこんなようなことを言った。
「仕事をがんばっている男が、一番かっこいいからじゃあないですかね?昔の男たちはかっこよかったから、俺はそのようになろうとしているだけ。」
彼は気が利く男だったから、私の質問の意図を汲み取って、なるべく私にも分かりやすいよう翻訳して説明をしてくれたのだと思う。つまり、彼にとってこの言い方は、私に分かりやすく解説するための台詞に過ぎない感じがしたということだ。
たぶん彼は私のように怠惰な悩みを感じたことがないのだ。やる気を出すとか出さないとかいう次元で、彼はそもそも思考力を無駄にロスしないのだと思った。彼は自分とは大違いだ。自らが光を放っている人に、その光を説明しないといけない理由はないというか説明できない。くさい台詞なんて、そもそもいらないのだ。
今、頑張っている己の姿こそが絶対的な真理なのであって、胡散臭い夢や目標なんてものはお飾りに過ぎないらしい…そういう感性の人がいるということが分かってしまって。自分の意地汚さがかえって自分でよく見えてしまい恥ずかしくなった。
彼は「男は幸せになる必要なんてなくて、女こどもやみんなが幸せになればいいんです」というようなことも言っていた。
彼はどう見ても本心で言っているのだ。
下衆な事を語らせようとしていた、自分がますます嫌いになった。
美しい汗をかいて死ぬことが、いつからか私は肯定できなくなってしまっていたことにはたと気がついた。
自分は彼に聞く前から、私は知っていたのかもしれない。
繰り返しになるが…夢や目標なんてお飾りに過ぎず、他人が語るそれらが贋物かどうか誰にも評価できないし誰かがそれを決める資格もない。少なくとも、夢や目標は現実逃避のためにこしらえたものでしかなかったということに気づいてたのだが、それを改めて再確認させられてしまった。
男塾の江田島平八もこんなことを言っている。
男なら幸せになろうと思うな。
幸せになるのは女と子供だけでいい。 男なら死ねい。
毎日を死ぬ覚悟で生き、安逸に人生を消耗させるな。
いかなる困難にも負けず、毎日を熱く苛烈に生きるのだ。
人はみな幸せに生きたいということが真であるならば、生きて死ぬことこそが男の幸せな姿なのである。
…わかるでしょーか?
私が、彼のマインドに少しでも近づくことはできるのだろうか?と、たまに考えることがある。
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