戯言。仏教は偶像崇拝を排除しないのか。

徒然草2.0

本物の仏像というものがあるのか?という問いはたびたび問題になる↓

仏像の研究者が講座でコンクリート製の仏像の話をしたところ「国立博物館で本物を見て学んだほうが良い」と言われる→「本物の仏像とは何か?」という問い

本当の仏像なんてものがあると思っているなんて愚かなことだなあ…と思ったりもするのだが、タイ料理屋の横に置いてあるどきつい現職の装飾が施された仏陀のモニュメントに対して手を合わせないが、京都のお寺にある仏像はありがたがってとりあえず手を合わせておくわけで、同じ仏陀の像でも私自身は態度を変えている。ということは、本当の仏像とそうではない仏像を分けて考えていた、ということにならないだろうか。

禅宗か何かの問答でも、木でできた仏像は、もとの木なのかそれとも仏なのかと問うお話があったような。お寺には決まって仏像があるくらいだから、仏教は偶像崇拝を否定していないかもしれないが、経典では本当の教えとそうではない教えがある等の文句がある。(例えば法華経)また、仏の教えではないものを信じられては困るので仏教では「本質を正しくつかむ」スキルについて言えばかなり口うるさいところがある。

柄谷行人の「世界史の構造」にはこのような記述がある。

一般に、偶像は超越的な存在の「物象化」だとみなされる。しかし、たとえば、神を人格としてみることも物象化であり、偶像崇拝にほかならない。ゆえに、仏教では超越者を「無」とみなしている。超越者は外にあるのではない。が、内にあるのでもない。なぜなら、それは「無」であるから。その意味では、仏教もまた「偶像崇拝の禁止」を目指しているといってよい。現実には、仏教は国家や共同体に従属して存在するので、偶像崇拝に陥っている。しかし、それは多かれ少なかれ、どんな普遍宗教にも当てはまることだ。

時々、見つけたお寺の境内にふらっと入ってなーんだこのお寺は仏像の1つもないのか。

…などと思うことがしばしばあるが、もしかしてあれば経費節減じゃなくて偶像化をあえてしない行為なのだろうか。悟るとはゼロになること=無になることであるが、それって別に偶像崇拝の禁止ではなくて人間の究極の姿になるプロセスというか結果であるような気もするが仏陀と仏陀の教えをとらえどころのないモノだというふうに定義するのは確かに言われてみれば偶像崇拝をさせないための仕様のような気がしないでもない。

「仏像に執着すること、すなわち煩悩なり」なのかもしれない。

最近、安藤忠雄の光の教会が見たいと思うことがある。

新国立美術館に等身大の光の教会が展示された時は興味がなかったがまたこないかな。

段ボールで自分で作れば良いのかな?いやそれは偽物の光の教会だな。

でも、光の教会に偽物も本物もあるのだろうか。

徒然草2.0
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