仏教が好きです。
原始仏教から始まって日本の大乗仏教もそれ以外の仏教っぽいものすべて。
でも「仏性」っていう言葉は明らかに変な気がします。
ブッダの教えを哲学的に捉えた時、根源的な意味でおかしい。
…というのは、
大乗仏教で仏性と呼ばれる法華経では仏種と書かれているものは、私たちのなかに宿る性質であり、これを育むことで仏のようになれるということなのですが…この仏性って一体なぜ私たちの体のなかにあるの?おかしくない?仏様が生まれる前の人間にあるものなら、仏性って表現がおかしいよね。
ア・プリオリな性質なら別名つけたほうがよくね?と思うんですが。
まあ、大乗仏教の仏陀は時空を越えた変化自在の存在だと思うので、なんでも有りっちゃ有りなのでしょうし、もともと私たちに仏の何かが備わっているって感覚はありません。まあこれが、猿性とか蛇性みたいな他の動物の性質だけど、適当な名前がないので仮にラベリングしてわかりやすく名付けているだけだというならネーミングとしてはありかなと思いますけど(脳科学?の分野でも爬虫類脳と本能に根ざした脳みそを表現するが、その場合にホモ・サピエンスよりいぜんに爬虫類がいたという意味では、歴史的時系列的な流れを汲み取っているという意味では筋が通るネーミングだと思います。それに引き換え)、そこに仏様のラベル貼っちゃうのはなんだか自意識過剰な気がするんですけどね。
仏陀がいる前の人はみな悟っていなかったのか?とか仏陀の性質が私たちにもあるとか?いうのは宗教的なこじつけですよね。
仏陀が在る前から私の体のなかに在るってどうもおかしい。
まあでも、理解はできるけど。
例えば、私が好きなタレントXがいたとしましょう。ある時にXがコンサートで叫びました。
「Xを好きになるというX性がみんなのなかに生まれたときからあったんだよ」まあ、そうかもね。
みたいなふうに理解はできるけど、生まれたときからあったかどうかは冷静に考えると、違うのではないか?
仏性って言葉が現れたのは大乗仏教の成立からで、原始仏教の仏典にはそんなことが書かれていない。
誰にでもア・プリオリに生得的な悟りに至る性質があるんだよ…それは仏の種(仏性)だよと言うのは、正確に人に説明するときには不適切かなと、とくにキリスト教徒とかすでに考えが定まった人に説明するときには無理がある理論だと思った次第です。
戯言は以上です。
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