ガンジーとかハイデガーとか、つまりは、聖人とか哲学者は、死を前提にして今をよりよく生きろと言うが、あれってよく考えるとおかしい。
ソクラテスもただ生きるのではなく善く生きよと言ったのが有名であるが、彼は死に急ぐかのように自ら毒杯を煽っている。
死より優先される価値があると言われるのかもしれないが、生きているのが面倒になったというのが正直なところでは。
いずれにしても、ソクラテスは死を恐れるのがおかしいと考えたわけで、ガンジーやハイデガーとは区別される。
つまりは「どうせ死ぬんだから今を善く生きよう」という解釈に”どうせ死ぬんだから”という理由付けっている?いらないと思う。
「今を善く生きよう」でいいのでは。
生きるか死ぬか、デッド・オア・アライブ…これなんてただの言葉遊びだ。
…とはいえ何か前提がないとしまりが悪いので、この記事も今を永遠に生きるつもりで生きろ!というのを、ブログのタイトルにしてみたがこれもこの記事で書いている通りでおかしい。
生の反対が死かはちょっと違うと思う。あえて「今を永遠に」と付したが、今を永遠にと言った時点で死が対比されるので、結局は生きるかor死ぬかを言っちゃっている。
死の反対は生じゃなくて、分かりやすい言葉で言えば日常だろう。
より正確に言えば生死はセット概念で生死の反対は生死を意識しないつまり平凡な日常とそこにある自意識である。
人間は比較するものがないと評価できないので、死ぬ気で生きるとか言っちゃうけどこの時点ですごい不健全です。
死をガソリンにしないと生きられない時点で、その人はなんかおかしいです。
日常が楽しい、これだけでいいのに、日常がどこか味気ないのかやり過ごすのが辛いのか、生き死にとか、運否天賦とか、幸不幸とか、対概念をとってきてスパイスに味の素ぶっかけて味変して飽きがこないようにしたがる。虚無に背を向けてキラキラしたい。まあ、その気持ちよくわかります。まさに私もいろんな味付けをしていたい性質(たち)なのだけど一巡してくると味変する材料さがしているのが億劫になってきて、もうこのまま素朴な平凡な日常でいいのにな。となってくる。
ああ、そういえばXにいい言葉があったな。幸福には2つあって、何かある幸福と、何もない幸福だって、何もない幸福って、平凡な日常のことだな。ああ、平凡な日常ってつまらないと思っていたけど幸福なんだ。不幸があった人よりはそりゃそうかもしれない。
そうやって、不幸のスパイスをわざわざ想起しなくていいのになーと思いつつ、あれこれ考えているけどほんとは何も味を付けない状態で十分だったりする。
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