主観と客観と言えばよいでしょうか。
私達は大人に客観性を求められるわけですが、誰かの顔を見て行動をしているのも違うかなと思います。自分の中(主観)にでっちあげた主観と客観の間で生きていると思います。
孤独の対義語は連帯らしいです。
知らんけど。Webの辞書で調べたら、そう出てきた。。。
人は死ぬ時は孤独です。死後の世界を信じるならば、だれかと行けるかもしれませんが。
さて、孤独の反対は連帯でしょうか。なので孤独であることの対偶は連帯しないになるのでしょうか。
だから、人に連帯責任はありません。てことになるのでしょうか。
…まあ、人は孤独である、というのも究極は、おかしい話です。ふつーに考えればわかることです。
まず死ぬことは無神論者というか死=無と捉える場合は、自意識の消失なのですから孤独も連帯もクソもありません。そういった認識主体が消失することなので、死んだことを考えるだけ無駄です。認識主体がない状態が維持されるのが死なので、その先はありません。なのに人は不思議で死ぬことを決断したりします。
死の決断とは生者の未練を消すことであり、生者の自分がどうあるかなどということを考えておく必要はないのです。まったくもってない。生き恥は生きているから感ずるもので死に恥なんてものはないんです。当たり前。ハードディスクの中身に見られたくないものが入っていることを気にすることはモラールがある証拠かもしれませんが死に恥を認めるという意味ではアホです。死後の世界とか燐廻転生して生まれ変わるとかいう自己認識があるからこそ、そこに現在を生きる私達が自分という真我/アートマンを認めドグマをこねくり回す意義があるが、それがないというスタンスならば…無意味。笑止。
しかし、孤独を生き恥を恐れるのが人間。恥があるから日本文明がある(?)
コメント