人に襲われたい願望があります。理想、野獣死すべし。
喧嘩とか暴動に巻き込まれて、野たれ死ぬ映画のワンシーンと言うと、カッコよすぎますが、インターネットのグロ動画というほどリアリティもクソもへったくれもない、妄想に取り憑かれています。
実際に福岡で低脳先生なる人物に突然刺されて亡くなったHagex氏の話のように、両者ともに面識がなく、実際にHagex氏も訳がわからんと思う暇もなく、いや、もちろん「あれ俺死ぬの」「痛い、苦しい、死にたくない」と何秒か何分かは思ったかもしれませんんが、その呆気なさすぎるはアブドゥルの如し。しかしまあ、想像することができぬほどに死ぬというのは本来的に呆気ないんだと思います。
生きるのも光陰矢の如し。しかし、死とはなんだろうという疑問に、ただ生きることの意味がわからない私にとって、頭から離れない出来事であることは確かな死のイメージがある。
哲学者の池田晶子は自らの死生観を「いのち根性がない」と言った。私もそれを読んで同じくそうだと思った。だが、違う。もう少しこじらせ方がおかしい。私の場合は「死にたい願望」である。これが行き過ぎると死なねばならないに変化する。作家の太宰治や三島由紀夫はこの病に取り憑かれていたのだ。彼らの場合はその時代の文芸にまで美学になってしまったのが運の尽き。なんて言えば生者としての奢りだが。
はーやくこい。はーやくこい。
かっこよく死にたいとか、理想の死があるとか、「この狭い場所で襲われたら、このように対処するしかないから危険だな」とか考えるのが好きなので、こんなしょうもないことを考えている気がしないでもないのですが。肯定的に言えば死ぬ訓練を時々頭の中ですることで、私自身が意識せずに「生きる道を拓こうとしている」のかもしれません。
なぜ、こんな気持ちになるのか?自分自身でも分かっていないところがある。
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